back number「繋いだ手から」考察──失恋のカタルシス──

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恋があたえうる最大の幸福は愛する女の手をはじめてにぎることである。

生島遼一鈴木昭一郎訳『スタンダール 恋愛論人文書院、昭和38年、84頁)

 19世紀、『赤と黒』などを著して近代小説の先駆者といわれたフランスの作家スタンダールは、『恋愛論』の中でこのように述べている。古い時代に出された格言だが、現代の恋愛でも手を握ることは恋する相手との関係を深めるための最初期の関門として、重要な意味をもっている。言わずもがな現代恋愛の表現者であるback numberの作品描写にも、手を繋ぐという行為がみられる。本稿では「繋いだ手から」に描かれた失恋とカタルシスの問題について、手にまつわる他作品との比較を交えながら考察を行っていく。

 「繋いだ手から」はシングル『繋いだ手から』(2014)、アルバム『ラブストーリー』(2014)に収録された作品である。ベストアルバム『アンコール』にも選ばれているのだが、その割には知名度が低い(気がする)不遇な作品でもある。スタンダールは手を「にぎる」という言い方、訳され方をされているが、back numberはそのタイトルから分かるように「繋ぐ」と表現している。どちらも同じようだが、前者は自らが相手の手を握る、あるいは握ることを許されているということに幸福の重きを感じており、後者は自らが相手の手を握り、同時に相手が自分の手を握り返していることに幸福の重きを感じている点で異なっている。

ここに僕がいて 横に君がいる人生なら

もう何もいらない 嘘じゃなかったはずなのに

電話握りしめて 朝まで口実を探していた

胸の痛みはどこにいたのか こんな事になるまで

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

本作の語り手は失恋後の生活を過ごしており、別れてしまった恋人への未練を口にする。かつて復縁のきっかけをつくろうと電話をしようとしたが、口実が見つからないまま時間が経ってしまったという状況にいるようである。彼は恋人が横にいてくれさえいれば何も要らないとの考えを「嘘じゃなかったはずなのに」と振り返っている。つまり、結果からすれば、それは嘘になってしまったというのである。彼が恋人と別れた理由は描かれていないが、何やら彼の方に落ち度がありそうである。

何もできない君なら 何でも出来る僕になろう

誓った夜の僕には 何て言い訳して謝ろう

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

ここでも彼女と別れるに至ってしまった自分とかつての自分との落差が嘆かれている。相手の不足を補う存在として自分を意味付けようとするのは不安な心境の表れといえる。彼は彼女のことは自分の横にいるだけでいいと考えているが、彼自身は彼女の横にいるだけでは不釣り合いだと感じていたのである。そこに「胸の痛み」が生じていたのだろう。仮に彼が浮気をしてしまって彼女と別れたのだとすると、原因はこの不安にあったはずである。つまり、彼は恋した彼女に見合えるまでに十全な人間であろうと努力してきたが挫折してしまった。彼は不安から逃れるために気持ちを他へ移してしまうようになり、また依存するようになり、ついにそれが彼女に発覚するなどして取り返しのつかない事態になってしまった、というわけである。

繋いだ手からこぼれ落ちてゆく

出会った頃の気持ちも 君がいてくれる喜びも

僕はずっと忘れていたんだね

離した手から溢れ出してくる

今頃になって君に 言わなきゃいけなかった言葉が

見つかるのはなぜだろう

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「繋いだ手から」、「離した手から」という連続した流れは、インディーズアルバム『逃した魚』(2009)の一曲目「重なり」を連想させる。「重なり」の語り手は「繋いだ手から」とは違い、落ち度のない(あるいはそれを自覚していない)振られ方をしているのだが、ここでも手に関する描写がある。

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朝まで笑って重なり合って繋いだその手が

まだ心の片隅で繋がっているなら

(重なり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

今更もがいて確かめたって離れたその手は

もう知らない誰かと繋がっているから

(重なり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「重なり」における「繋いだその手」、「離れたその手」という連続した流れは、本作のそれと酷似している。このことを念頭に置いて本作に戻ってみると、「繋いだ手からこぼれ落ちてゆく」の手の先にいるのは「重なり」でいう「知らない誰か」であり、「離した手から溢れ出してくる」の手の先にいるのが別れてしまった彼女ではないか、との推測がたてられる。つまり、本作の語り手には新しい恋人がおり、その上で前の恋人への未練を抱いていることが分かる。ここでひとつ擁護をしておくと、既に次の恋愛に進みながらも前の恋愛への未練を抱く語り手は本作に限ったものではない。シングル『花束』(2011)のカップリング曲「だいじなこと」には、そうした語り手が出てくる。新しい恋人と過ごす中で、かつての恋人との間で解決できなかった問題の答えを見つけるのは、決して現在ないし過去の恋人に対する不誠実さを表さない。それどころか、別れてもなお自省を続ける誠実さを強調したものである。

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もしあの日君と 出会えてなかったらきっと僕はまだ

もっと卑屈で もっとセンスのない服着てたろうな

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

よく笑ってよく食べて よく眠る君につられて

僕は僕になれたのに 全部分かっていたはずなのに

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「繋いだ手から」の語り手に新しい恋人の存在が匂わされているのは、彼の成長を示したものである。彼は彼女に見合える人間になりたいという意欲から、卑屈な性格を改善したり、センスという対外的な意識を身につけたりしたのだ。その後ろ盾として、「よく笑って」、「よく食べて」、「よく眠る」という、取り繕わずに全てをさらけ出し、それでいて魅力的な彼女の存在があった。彼女を通じて彼は、彼女と別れてからも次の恋人が早々に現れるまでに魅力的な人間へと成長できたのである。彼女と破局した後になって、ようやく彼はそれを胸の痛みと共に思い出したのだ。

美しい花でも石コロでもなくて

贈るべきだったのは そんなものじゃなくて

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼女と別れる直前、彼は少しでも彼女を引き留めようとあがいたのだろう。「美しい花」や「石コロ」は恐らく宝石だろうが、彼はそういったテンプレートの贈り物でどうにかしようとしたのだ。しかし、彼が贈るべきだったのは「言わなきゃいけなかったこと」というように、形ある物より、そこへ込められていたはずの本心と言葉であった。彼が彼女に見合う人間になるために対外的な価値観であるセンスを手にしたことは既に述べたが、この部分にはそうした「一般的な視点」による罠も示されている。センスを手にし、他人に好かれる姿や物を学ぶことは、多くの人に喜ばれたり、好かれる可能性を上げたりできるといったメリットと共に、普通はこうすれば上手くいく、普通はこれをあげれば喜ばれるといった考えから、時によって彼を相手固有の価値観や好みといった肝心な部分を無視した一方的な押し付けへと走らせるリスクをも生じさせていたのである。彼はそんなリスクのもたらす行動を、最もしてはいけない場面に際したところでやってしまったのである。

繋いだ手からこぼれ落ちてゆく

出会った頃の気持ちも 君がいてくれる喜びも

僕はずっと忘れていたんだね

離した手から溢れ出してくる

今頃になって君に 言わなきゃいけなかった言葉が

やっと見つかったからさ

 

さっき見つかったからさ

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 これが本作の結びである。彼は彼女と出会ったことによって得られた自身の成長とそれでもまだ至らなかった部分を反省し、自覚することでまた成長していることがみてとれる。本作を一度聴いていただければ分かるのだが、この「繋いだ手から」という曲は、失恋にともなう未練というテーマを扱った歌詞でありながら、曲調は穏やかで明るいのである。反して、本稿にて「繋いだ手から」の類似作品として挙げた「重なり」は激しく暗い曲調である。この両者の違いは語り手の置かれた時期によって生じていると考えられるが、ここには、インディーズ時代のback numberとメジャー時代のback numberの違いも指摘できるのではないだろうか。つまり、かつて恋人と手を通じて繋がれ、今や離れたという現実を掻き消そうともがき、嘆き続けるのが「重なり」だったとすれば、新しい相手と繋がった後でも、かつての恋人と手が離れたことを忘れていない「繋いだ手から」は、失恋の未練を、成長した自分自身の一部として受け入れている。すなわち失恋という悲しい過去を糧にして、現在を懸命に肯定していく境地へと達しているのだ。その点において、本作は失恋の悲しみを徹底して追及したインディーズ時代と、そうした悲しみの先にあるカタルシスを表現するまでに至ったメジャー時代とを分ける象徴的な作品のひとつだと評することができるだろう。

 以上、「繋いだ手から」について考察してきた。手という単語にこだわると、他にもアルバム『blues』(2012)に収録された「エンディング」や「恋」、「わたがし」など沢山あるのだが、それだとまったく収拾がつかなくなるので本稿では「繋いだ手から」を中心にすることでまとまりを作れるようにした。恐らく手を繋ぐという行為は、back numberの作品において、現在の私が考える以上に広く重い意味をもっているのだろう。とりあえず本稿を書き終えるに至り、このテーマは安易に手を出していいものではなかったな、と思い知ったところである。

back number考察──車窓と心象まとめ──

 これまで五回に渡り、back numberにおける車窓と心象の関係を「then」、「海岸通り」、「fallman」、「march」、「電車の窓から」を通じて考察してきた。まずは整理がてら、それぞれの作品を簡単に振り返ってみる。

 「then」における窓は車の窓であり、窓には夜空の星が映っている。語り手は星をかつての恋人と過ごした思い出と重ね合わせている。そして、朝焼けに向かい星が消えていく様子を眺めていく中で、刻々と過ぎる時の流れを自覚し、嘆きつつも、最後は窓ではなく空いたシートをまっすぐに見つめる。

 「海岸通り」における窓は海岸線の絵の形であり、語り手はその絵を恋人とみていた記憶と絵を重ね合わせている。恋人と別れる際、素直になれなかったことを後悔している語り手は、かつての恋人のもとへ会いに行きたいという気持ちの前で地団太を踏んでいる。そして、自分自身の本音にさえ素直になれずにいる。しかし、時が経つにつれて、恋人との記憶が薄れていくことを自覚し、絵のように止まってしまった二人の関係を再び動かせるために恋人へ会いに行くことを決意する。

 「fallman」における窓は「then」同様、車の窓である。語り手は恋人のもとへ合鍵を返しに向かう車中にいる。語り手は車窓の景色がかつて恋していた時と比べて寂れてしまっていると気づきながら、やがて恋していた頃の自分の堕落を思い知る。そして、恋人のもとへ向かう目的は合鍵を返すことから、心を取り返すことへと変わり、いっそう車のアクセルを踏み込んで先を急ぐ。

 「march」における窓は「then」、「fallman」同様、車の窓である。語り手は恋人を隣に乗せ、彼女を家へと送る最中にいる。語り手は恋人との間にある想いの温度差に悩んでおり、自ら彼女に別れを告げようとしているが、決心がつかない。そして、窓に映る外の景色では稲穂や虫や風が、やがて自らの命が燃え尽きることを知ってもなお精一杯に動いていた。語り手はその様子を見て、彼女に別れを告げるのではなく、自分と彼女の間に想いの差があってもなお想い続けようと決心する。

 「電車の窓から」における窓は題名通り電車の窓である。語り手は電車の窓の中に、生まれ育った街の景色と、昔の自分の姿を見る。そして、輝かしい将来を目指しながらも行動に移せていなかった自分の姿をみて現在の成熟を思いながらも、無垢だった頃の自分を羨ましくも思う。語り手はかつての自分が欲していた将来への切符を手にしていながらも、自分にその資格がないのではないかと不安を覚えており、過去にすがろうとしていた。しかし、窓を見つめながら流した涙を自覚することで現在へと立ち返り、抱いた疑問への答えを出さないまま、悩み続けながら電車に乗り続けることを選ぶ。

 この五作品に総じて言えることは、語り手が悩める人物だということと、その停滞状態から脱するきっかけとして、窓が重要なキーポイントになっているということである。本稿を考察するにあたって、窓の他に「車」についても注目した。それは窓に関する対象作品を調べている中で、そのほとんどに車が登場していたためだったのだが、今このようにみてみると、車内という環境にも意味があったことに気づかされる。それは我々が自動車ないし電車に乗る際にとる姿勢である。車に乗る時というのは運転者であっても足と腕以外は動かすことなく、座った姿勢のままでいる。電車に乗る時は座ったままか、立ったままである。自動車や電車は、そこに乗っている人間を静止させたままで移動させる。そうした車と乗客の関係性は、本稿で扱ってきた語り手と時間の関係と全く一致しているのではないだろうか。つまり、語り手がどのように、どのようなことに悩んでいようが、過去の思い出にしがみつこうとしようが、時はそのまま進み続ける。車とはまさに時を表したものだったのである。「海岸通り」だけには車が登場しないが、「絵画をみる」という行動をとる際の状況を考えた時、動きながらそうするとは考え難い。やはり、立ったままや座ったままではないだろうか。どんなにしがみつこうとも決して逆らえない時の流れという現象は、車に乗る、絵画をみるといった静止行動によって表現されていたのである。

 そして窓とは、過去と現実のギャップに苦しむ者へ開かれた脱出口なのである。「then」では忘却の情景、「海岸通り」では本音の情景、「fallman」では堕落した情景、「march」では生命の情景、「電車の窓から」ではノスタルジーの情景を映すことで、窓は語り手に再び現実へと戻るきっかけを与えていた。窓は車のような閉鎖空間で静止していながらも、少し手を伸ばせば届く範囲にあるものである。「海岸通り」においては、目の前の絵画そのものが窓なのだろう。車の中から窓をみるという行為は、意識を内から外へ向けるということでもある。そして、初期のback numberにおいてその作品に車や窓が多く登場するのは、作詞作曲を担当する清水依与吏の失恋から始まった当バンドが指針、目的を聴衆へ主張するにあたり、これらが最も適した事物だったためである。車や窓とは、失恋や不安といった他者や社会、つまり外から否定されて閉じこもってしまった自分、つまり内であるところの心象を再び開放させたいという願いの、何よりの表出だったのである。

back number「電車の窓から」考察──車窓と心象5──

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 さて次は「電車の窓から」である。本作はメジャーアルバム『スーパースター』(2011)に収録されている。『スーパースター』はインディーズ時代のアルバム同様に失恋ソングを中心にされてはいるが、「ミスターパーフェクト」、「こぼれ落ちて」など、恋愛とは異なるテーマを描いた作品の数々も印象深い作品となっている。「電車の窓から」もそうした作品の一つである。本作の語り手は走行中の電車内におり、窓から外の景色を眺めている。

生まれて育った街の景色を

窓の外に映しながら

銀色の電車は通り過ぎてく

僕を乗せて通り過ぎてゆく

(電車の窓から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

初期back numberの作品の多くは私小説的な作風であるが、メジャーアルバムの中でそれが最も顕著であるのは「電車の窓から」ではないかと思う。「生まれて育った街の景色」とは作詞の清水依与吏の、そしてback numberの出身地、群馬県である。

なんにも知らずにただ笑ってた

あの頃には戻れないけど

もらった言葉と知恵を繋いで

今日もちゃんと笑えてるはず

(電車の窓から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 電車内の描写から続くのは何やら意味深な言葉の数々である。電車内から覗く窓の景色とは単に地元の景色を映しているのではなく、そこにいた過去の自分を映している。車内にいるのは現在の自分である。彼はかつての自分の姿を「あの頃」と振り返り、今の自分も変わっていないと思いながらも、「笑えてるはず」と不安げな心境を露わにしている。本作における窓は、現在の自分を対称にある過去の自分を映し出すものとして描かれている。電車の窓というのは夜間になると外がほとんど暗いこともあって、黒い一枚絵のように見える。群馬がそうだというのではないけれども、田舎の電車ではもろにそうである。そして、窓の前に立つと、そこに映るのは戸の前に立っている自分の姿である。そのはずなのだが、彼がみている窓には現在の彼がいない。彼は今、電車に乗るという行動をしていながらも自分の居場所を見失っている。あるいは自己否定の表れで、過去の中に自分を埋めようとしている。

電車の窓に見えたのは

あの日の僕と変わらない街

なぜだろう切なくなるのは

なぜだろう涙が出るのは

(電車の窓から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「あの日の僕と変わらない街」は、いつ見ても同じ姿をしている点で共通している。彼がこうした変化しないものに繰り返し注目することは、かえって自らが変わっていくことを強く意識していることを表す。しだいに彼は感傷的になり、自身に「なぜだろう」と問いかける。同時に「涙が出る」ことで、彼は過去に埋没しようとする自分を現在に繋ぎとめている。もしくは、過去へと決して逆行しない身体によって現実へ引き戻されたともいえる。

すべてを投げ出す勇気もないのに

ただ愚痴をこぼしてた

あの頃から

欲しくて欲しくて

やっと手にした切符だって

何の迷いも

僕にはないはずなのに

(電車の窓から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

過去というのはしばしば美化されて思い出されるものである。しかし、彼が思い出している過去は「勇気もない」、「愚痴をこぼしてた」という未熟さをもっており、そう振り返ることのできる現在は成熟しているのだろう。ここではその成熟の末に手にしつつある、かつての自分が望んでいた未来への機会を「切符」という形で表現している。電車というのは敷かれたレールの上を走り、その乗客はその中に乗っているだけで目的地までたどり着くことができる、言ってしまえば予定調和を待つだけの存在である。けれども、同時に電車は過ぎ去った駅に戻ることができない。大げさではあるが、電車に乗るという行為には終着点まで振り返らずに向かうだけの覚悟が要るのであって、それが彼の言う「すべてを投げ出す勇気」を現在の彼が持ち合わせていることを示しているのだ。

あの日に電車をみながら

憧れ夢に見たような

場所までもうすぐなのに

なぜだろう涙が出るのは

(電車の窓から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 彼は再び「なぜだろう」と何度も繰り返している。この問いへの答えは示されず、彼は疑問を抱えた状態のままで本作は終わりを迎える。しかし、それはこの作品の欠陥を示すものではない。これまでみてきたback numberの作品というのは、その全てで失恋(あるいはその予感)の悩みを抱える語り手たちが初めの一行と終わりの一行で心境を一転させている。その点から、本作の終わりを考えてみると、そこには自己否定から自己肯定への転回があるのではないだろうか。彼はかつての自分が望んでいた未来に向かうための電車へ既に乗り込み、その中で過去の自分の笑顔を思い出す。そして、今の自分は同じように笑えているだろうか、と思う。彼は成熟してきたはずの自分が、実は退化しているのではないかと不安を覚える。おそらくそこで彼が居場所を見失ったのは、自分が電車に乗る、夢見た未来を掴む自信を喪失したためだったのだ。彼は自己否定をするなかで過去の感傷に浸るが、「涙が出る」ことでもう後戻りできない現実に引き戻された。そして、「なぜだろう」と問いかける。しかし、この時の彼は居場所を見失っていないのである。走り続ける電車のなかで、彼は同じように自らに問いかけ続ける。答えがでないのは、自分の過去を否定も肯定もせずにおこうという意思ではないだろうか。終盤において「なぜだろう」と問う彼の見つめる電車の窓に映っているのは、間違いなく現在の彼の姿だったはずである。なぜなら、涙を流しているのは紛れもなく現在の彼であり、答えを出さないという決断によって、彼は悩みながらも電車に乗り続けることを選びとったのである。

 以上、「電車の窓から」について私見を述べてきた。本稿で扱うback numberの作品は本作で最後である。次回ではこれまで考察してきた五作品を振り返りながらback numberと車窓についての結論を述べていく。けれども頭はまっ白である。

back number「march」考察──車窓と心象4──

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 お次は「march」である。本作も「fallman」と同じく『あとのまつり』に収録されており、語り手は恋人を彼女の家まで送迎する車中にいる。Wikipediaによると、題名の「march」は暦の三月という意味ではなく、自動車の日産・マーチに由来するそうである。*1本作では車を走らせている彼の心情が淡々と語られている。彼は、自分と彼女との間で、想いの温度差があることを悩んでいる。また、それがためにこの恋が終わってしまうことを予期し始めてしまった。彼は助手席の彼女に何かを言おうとするのだが、お互い無言のまま、車は走り続けている。

ゆるいカーブの先で この道は終わるんだよ

助手席の君に今日は言えるだろう

突き放す事も抱きしめる事もせず

ふたつのライトは平行に照らす

(march/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「この道は終わる」。彼はこの言葉を以前から彼女に言おうと考えていた。これは字面に沿えば単に帰り道を説明しているだけである。しかしながら、彼の中ではそれ以上の意味をもつものとして考えられている。彼女との関係について悩んでいる彼にとって、「終わる」という言葉はどのような文脈だったとしても禁句なのだ。その上で、この言葉を言おうと決めているのは、彼が別れを切り出そうとする意思の表れである。意思とは言いながらも、それはあまりに遠回しな行動であり、実際には、恐る恐る彼女の本音を探ろうという臆病さが含まれている。彼は彼女が自分と別れるという選択をとることを予想していても、決して願ってはいない。故に、彼は彼女につかず離れずの態度をとり、お互いの距離をまるで車のライトのような状態に保っていたのである。

僕の気持ちが落とし物なら 君の気持ちは忘れ物だね

それでも今も2人がここにいるのは なんで?

(march/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 彼は二人が想いを同じくしていない悩みを、失くし物の例えを出して表現する。落とし物と忘れ物の違いというと、前者は失くし物の居場所を分かっておらず、探さなければならない。後者はあくまで持って帰ることを忘れただけであり、失くし物の居場所は分かっている。落とし物をした人間は、失くし物がどこにあるかを知らないために不安に駆られる。一方で忘れ物をした人間は、落とし物をした人間よりは落ち着いたものだろう。それどころか、忘れ物をしたことすら忘れてしまい、本当に平然としているのかもしれない。こうした不安感の差を、彼が彼女との交際において感じている。そして、疲弊してしまったのだろう。自分ばかりが彼女への想いを落としてしまったのかもしれないと不安なのに、彼女の方ではそうではない。そんな不公平な状態のままで、なぜまだ一緒にいられるのだろう、と彼はほとんど呆れながら疑問を胸の内に繰り返すのだ。

君の事を想って今日はゆっくり眠れます

それがすべて ぼくのすべて

それでいい そのままでいい

僕の事笑って今日はゆっくり眠れるかい

それがすべてではない

それでいい そのままでいい

(march/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

ここでも彼は、相手を想っているのは自分だけなのではないか、という不安を吐露している。「それでいい」、「そのままでいい」という部分それぞれの末尾には「?」がつくのだろう。つまり、自問自答をしているのだ。

 相手との不釣り合いな想いを語ったものとして、本作以外では『シャンデリア』(2015)収録の名曲「クリスマスソング」が挙げられる。

できれば横にいて欲しくて

どこにも行って欲しくなくて

僕の事だけをずっと考えていて欲しい

(クリスマスソング/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「クリスマスソング」の歌詞が巧みなのは、一見すると月並みなテンプレートを並べただけに見せながらも、細部では語り手の不安定な心情を隠さず白状する点にある。ここでは「欲しい」という単語を畳みかけるように繰り返す。なぜ、ここまで要求するかと言えば、そこには語り手と相手との関係の希薄さ、相手の日常に一切干渉できない語り手の現状があるのであって、それは「ヒロイン」やそれ以前の作品から引き継がれてきたback numberの根強いテーマで……というと脇道に逸れ過ぎるのでやめる。

 「march」と「クリスマスソング」は、自分から相手への想いと相手から自分への想いが釣り合わないことへの悩みを語ったという点で共通している。しかし、前者は交際している二人で、後者は交際していない。「march」の語り手は相手からの想いを感じきれないために、交際しているのにまるで片思いをしているように感じている。「クリスマスソング」はまだ交際していないために未来への希望、期待感が残されているが、「march」では既に交際後である分、前者にはない失望感がある。

ゆるいカーブの先でこの道は終わるんでしょ?

誰が決めるんだろう

誰か決めるだろう

(march/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 自問自答をする中で、彼は自暴自棄になりかける。この後の展開からして、「この道は終わるんでしょ?」との言葉は彼女のものではない。恐らく彼は今夜の送迎で「この道は終わる」と言いたいと考えていながらも、その決意がいつまでも定まらない。故に、自問自答の中で答え役にまわる彼の自意識が、問いかける彼を急かしているのだろう。そして、ついに彼は「誰か決めるだろう」と決断を投げ出してしまう。この一時的な決断の放棄によって、彼の意識は内から外へと向けられる。

揺れる稲穂も騒がしい虫も

自分の寿命に気がついているのさ

君を家まで送るこの風も

(march/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

車の窓から覗く景色の中で、彼の目に映るのは稲穂、虫、そして風である。彼はこれらが皆、「自分の寿命に気がついている」と感じている。寿命とは命の終わりであり、それは彼が彼女との関係において考えているものでもある。ではその稲穂と虫、風がどうしているかと言えば、揺れ、騒がしく鳴き、吹いている。つまり、その全てには動きがある。自分の存在がいつか終わってしまうと知っている。それでも稲穂は俯かないで揺れるし虫は黙らないで鳴くし風は止まないで吹くのである。こうした光景を目にして、彼の心情もまた動き始める。

君の事を想って今日はゆっくり眠れます

それがすべて ぼくのすべて

それでいい そのままでいい

僕の事笑って今日はゆっくり眠れるかい

それがすべてではない

それでいい そのままでいい

 

そのままがいい

(march/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「そのままがいい」。この一言によって、「それでいい」、「そのままでいい」の後にあった「?」は取り払われる。彼は相手との不釣り合いな想いでいることの不安を肯定し、「それでいい」、「そのままでいい」と噛み締めるように言い聞かせる。そこには命の終わりを知っていても動き続ける稲穂や虫や風から、彼が受けた影響がみてとれる。つまり、たとえこの先この恋が終わると分かっていたとしても、彼女を想うことを止めることはないと彼は考えたのである。むしろ、終わりが見えているからこそ必死になろうと決めたのではないだろうか。

ゆるいカーブの先もこの道は続くんだよ

助手席の君にそっとつぶやいた

(march/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 これが彼の自問自答の末に出た答えである。「この道は終わる」ではなく、「この道は続く」と彼は彼女に告げる。この言葉を受けた彼女の様子は描かれていない。しかし、それは決してこの作品の欠陥を示さない。なぜなら、彼女がどのような反応を示したとしても、彼は「それでいい」、「そのままでいい」と肯定するに違いないからである。

 以上、「march」について述べてきた。本作における窓は、彼が自問自答の終着点を見つけるきっかけとなった景色を映し出している。本作でも窓に映っていたのは「fallman」同様、過去ではなく現在である。

back number「fallman」考察──車窓と心象3──

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 続いては「fallman」である。本作は『逃した魚』次いで発表されたインディーズアルバム『あとのまつり』(2010)に収録されている。本作のタイトルには「man」とあるから一見すると男性目線のように思われるが、語り手は女性である。ではなぜこんなタイトルになったのか、という由来を探してみると、「fall of man」という言葉がある。意味は「堕落」である。この点を手掛かりにしながら、本作に描かれる車窓と失恋を考えてみたい。本作では、音信不通となってしまった恋人のもとへ向かう最中にいる女性の心情が語られている。彼女は恋人から連絡を絶たれており、そのことで曖昧になった二人の関係に決着をつけようと、彼の元へ車を走らせている。

車の鍵と家の鍵 あなたに返す合鍵も

それだけ持って会いに行く 答えを聞きに

(fallman/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏) 

彼女の荷物は鍵だけである。鍵とは得てして扉や箱といった閉ざされた物を開くものである。二人の関係も同様で、彼から連絡を絶たれている現在は、彼女からすれば戸を閉められ、鍵をかけられたような状態である。

あなたが好きって言ってたこの手この指で

エンジンをかけて走り出す

愛してるよって言ってたその同じ声で

さよならって言われに走ってく

(fallman/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 彼のもとへ着いた後の展開について、彼女は既に予想を立てている。連絡を絶つ、という行為をとられていることから、いわゆる自然消滅の形で交際を終わらせようとしているのだ、という推察を立てているのだろう。ここまでみると、あたかも彼女の方では既にこの恋が終わっているかのようにも思われる。しかしながら、「さよならって言われに走ってく」というように、別れの言葉を言うのは彼女ではない。彼女は彼に答えを聞きに会いには行けても、自分から別れを切り出すことはできないことを自覚している。これが本作で描かれている堕落の一端である。彼女は彼が既に自分を好いていないと分かっていながらも、彼なしでは何も思い切ることができない。それほど依存してしまっていたのである。

窓を流れる街並はこんなにさびれていたっけな

赤信号はこんなにも短かったんだっけな

(fallman/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

本作における窓の描写はこのように彼女の運転する自動車の車窓として登場する。これまでの「then」、「海岸通り」では、窓にうつるのは過去の景色だったが、「fallman」では現在の景色である。「こんなにさびれていたっけな」という表現は、以前の景色がいかに綺麗だったかということの裏返しである。恋の破局を目前に、車窓にうつる外の景色は輝きを失っている。そして、赤信号が短く感じられるのは、先へ進みたくないという意思の表れであって、別れの言葉を受け取りに行こうと決意している彼女の本音の心象が、窓を中心に表現されていることが分かる。

あなたが好きって言ってた足で踏み込んで

エンジン吹かして走り出す

愛してるよって言ってたその同じ声で

さよならって言われに走ってるのか

(fallman/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼に別れを切り出せずにいる自分と、別れを言われようと車を走らせたのに到着を遠ざけたいと願ってしまう自分に気づいた彼女は、さらに内省的な思いを巡らせる。中でも「さよならって言われに走ってるのか」という語りは、その前の「走ってく」とで心境を異としていなければ出てこない。なぜなら、「走ってく」とはあくまでも自分の行動をそのまま表したものに過ぎない。しかしながら、「走ってるのか」とは、自分の行動を、その行動をとる自分を俯瞰して見つめた末の表現なのである。自分はわざわざ相手に別れを言われに走っているのだ、と自嘲的に語る彼女は、自らの堕落をもここで自覚したのである。

何かの間違いで 私の思い違いで

そんな都合よくいかないよね

私の心はまだあなたに預けてるから

返してもらわなきゃ

(fallman/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 堕落を自覚した後の彼女は、自分が「何かの間違い」、「思い違い」によって彼と別れる未来を遠ざけようとしていたことを告白し、それが都合のいい思い込みだったと認める。しかし、だからといって彼女は帰ることも車を停めることもしない。むしろ、アクセルを踏み込んで、より車を走らせることを選ぶのである。彼女が彼のもとへ向かう目的は、ここで一変している。つまり、合鍵を返し、別れを言われに行くのではなく、別れを言うために、そして、自らの堕落から抜け出すために必要な「私の心」という鍵を取り返しに行こうと決意したのである。

あなたが好きって言ってた私のすべてで

全部であなたを好きでした

愛してるよって言ってたその同じ声で

さよならって言われに走ってくのさ

(fallman/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「好きでした」という過去形と、「さよならって言われに走ってくのさ」という思い切りのいい宣言をもって本作は幕を下ろす。ここまで強気に変われたのなら、もはや会いに行かなくていいのではないかと思わなくもないが、さよならを言う自信はまだできてないという辺りは、back number特有の煮え切らなさ、それに伴う滑稽さの表現なのだろう。

 以上、「fallman」について考察してきた。本作は語り口が女性という点でこれまでの作品とは異なっている。女性の語り口では男性のそれより変わり果てた現実がうつしだされているという発見は、今後の考察においても押さえておきたい。そういえば「助演女優症」の女性もそんな感じだったような気がするな、とたった今思い始めたのだが、もはや原稿が終盤だから、とりあえず別稿にまわす。未来の著者に託す。

 

back number「海岸通り」考察──車窓と心象2──

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 次に「海岸通り」について考察する。「then」と同じく『逃した魚』(2009)に収録されている本作では、やはり失恋した人物の心象が語られており、歌い出しから「窓」という単語が登場している。語り手を悩ませているのは、恋人と最後に交わした言葉への後悔である。

「もう駄目だね」って言われるまで気付けなかった

「元気でね」なんてかっこつけなきゃよかった

(海岸通り/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

別れを切り出したのは恋人の方からだったようである。彼は彼女を引き留めることなく受け入れ、「元気でね」とさっぱりした別れの言葉を残した。しかし、やっぱりそれは間違いだったと後になってから思い直す。これが本作で語られる後悔の出発点である。

自分の気持ちに嘘をつかずに生きて行くことが幸せなら

会いに行けないこの僕を何と呼ぼう

特に珍しい事じゃないんだろうけど

(海岸通り/作詞:清水依与吏 作曲:清水依与吏)

「then」では、かつての恋人が逃げるように去り、もはや復縁の見込みは無かったが、「海岸通り」では事情が違っている。彼はまだ彼女と繋がっており、その気さえあれば会いに行くことができる。しかし、「会いに行けない」。なぜか。それは彼がまだ本音を言えずに、かっこつけようとしてしまう自分を捨てきれていないからである。「特に珍しいことじゃない」とは、こんなことはありふれた悩みに過ぎない、という開き直りの言葉である。しかし、そのように現状を一般化して考える人物が、必ずしも物事を俯瞰した冷静な人物だとは限らない。かえってその逆で、自分の抱える問題を不特定多数の「みんな」に紛らわせることで他人事にし、考えることを放棄したとも言える。彼はこの期に及んでまだかっこつけてしまうのである。

二人窓の形をした海岸線の絵を

眺めて笑ってた日を何度も何度でも

思い出し笑ってよ

(海岸通り/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

本作の歌い出しに登場する窓とは、海岸線の描かれた絵画である。海岸線の絵はかつて想い合っていた二人の象徴であり、その記憶を思い出して、もう一度同じように笑ってほしい。それが彼の本音だが、会いに行けないので虚空に向かって懇願するほかないのだ。

 このように過ぎ去った恋人との思い出にすがりつきたい感情を「絵」という表現にたとえた他作品として、『スーパースター』(2011)収録の「あやしいひかり」が挙げられる。作詞の清水依与吏がポケットモンスターシリーズのファンを公言していることもあるから、この題の意味としては恐らく「混乱」が当てはまるだろう。「あやしいひかり」は別れた恋人と復縁する可能性を匂わせている点で本作と状況が似ている。

思い描いて引き裂いて

繋ぎ合わせた夢が

あの頃と同じ形じゃなくても

寄り添いたくて大声で

何度でも呼ぶから

その絵の片隅

笑って見せてよ

(あやしいひかり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「あやしいひかり」は、恋人と別れてしまったけれど復縁したいという願望と、もし復縁できたとしても結局また別れてしまうかもしれない、という不安の間で渦巻く煩悶を描いた作品である。絵というのは静止した時間を表現したものであり、それは二度と動かないという点で記憶を指すものでもある。しかし、ここでは絵を前にしながら「笑って見せてよ」と呼びかけている。別れたその時から止まってしまった二人の関係が、息を吹き返すように再び動き始めてくれたなら、と考えているのだ。「海岸通り」の「思い出し笑ってよ」にも、同様の解釈がいえるだろう。

 さて、彼が本音を隠したままでいるうちにも、日々は進んでいく。「then」と同じく、現実を生きるからには決して避けられぬ不可抗力の忘却が、ここでも問題として浮かび上がっている。

二人窓の形をした海岸線の絵を

眺めて笑ってた日が少し遠く見えた

全部嘘じゃないのに

 

二人はどんなに離れてても繋がれるよって言って

あんなに近くにいても駄目だったじゃない

別にもういいけど

(海岸通り/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

この箇所は、まるで会話のようである。海岸線の記憶が薄れていく中で、彼が二人で交わした会話を回想しているのだろうか。「全部嘘じゃない」とすがりつく彼を、「駄目だったじゃない」と彼女が突き放している。「別にもういいけど」は、この後にも彼の台詞として出てくるが、これは彼女の口癖だったのかもしれない。そうだとすると、彼は彼女と同じ口癖を使うことで、それが無意識だったとしても、思い出を遠のかせる現実に対し精一杯の抵抗をみせていることになる。

振り返らない 約束も全部無効だって

確か二人で決めたような 決めてないような

(海岸通り/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 ささやかな抵抗も空しく彼は彼女と過ごした生活の記憶が曖昧になってきたことを自覚し始める。そうした危機を前にして、ついに彼は観念するのだ。

このまま時が流れればきっと忘れるんだろうな

君がそれでいいのなら

実は僕嫌なんだよ

 

男らしくないって言われてもやっぱり嫌だって言うよ

これでもう本当に最後にするから 今更って笑うかい?

(海岸通り/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「君がそれでいいのなら」とかっこつけてしまいかけて踏みとどまった彼は「実は」と本音を切り出した。「笑うかい?」という彼女の笑顔を期待した描写がみられるが、これは冒頭の「笑ってよ」とはその意味合いが異なっている。冒頭では海岸線の絵という二人の過去を思い出してほしいと願っていたのだが、終盤では本音をさらけだした今の自分をみてほしいと願っているのだ。かっこつけを捨てた彼が彼女と正面から向き合おうと決意したことが分かる。

二人窓の形をした海岸線の絵を

眺めて笑ってた日にもう一度帰ろう

君と一緒に帰ろう

(海岸通り/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼女と本音で向き合う彼は、海岸線の絵の記憶を、思い出すだけの過去としてだけではなく、これから二人で目指す目標として考え始めている。このことから、本作のタイトルが「海岸通り」である理由が見えてくる。それは、もはや彼が額縁に閉じられた海岸線の絵の前で佇むことをやめ、彼女と共に海岸線への道を歩こうと決めたのである。前回の「then」に引き続き、本作も失恋と忘却の窮地に立たされた後で、最後に奮起する内容となっているが、「海岸通り」はより具体的な行動が示された成長譚だ、ということができるだろう。

 また、本稿では「あやしいひかり」と併せる形で考察を行ってきたが、もしかするとこの作品が「海岸通り」の後日談で、「その絵」が海岸線の絵だったという可能性もあるかもしれない。けれども、そうなると「あやしいひかり」の内容からして救いがないので、これ以上は考えないこととする。

back number「then」考察──車窓と心象1──

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 本稿ではback numberにおける車、窓の描写と心象の関係について考察していく。back numberの歌詞に登場する「車」、「窓」という単語は、インディーズアルバムの『逃した魚』(2009)、『あとのまつり』(2010)といった、とりわけ初期の作品において頻出されるが、メジャーデビュー後の「電車の窓から」などにもみられる。車と窓は、back numberの作品を考察するにあたって重要なキーワードだと言える。ただ、back numberは楽曲の発表時期と制作時期が異なっているという場合がある。たとえば「Liar」という作品は『シャンデリア』(2015)が初出だが、制作時期はインディーズ時代である。そのため、本稿では車、窓が登場する作品を発表時期の順に即して扱っていくが、あくまで個々の作品における車と窓の描写がいかなるものか、という点に注目し、発表時期を押し並べた上での表現の変遷に関しては不問とする。

 まずは「then」という作品である。本作はインディーズアルバム『逃した魚』に収録されている。『逃した魚』というアルバムは失恋をテーマとした作品であり、本作もその種の一曲である。歌詞という都合上、作品の内容をまとめると抽象的になりすぎるのだが、簡単に言えば失恋後、日々を過ごしていくなかで移り変わる自らの心象を怒りとも嘆きともつかぬ激しい調子で歌ったものである。語り手は自動車の運転席に座っている。しかし、車がどこに向かっているかは分からない。なぜなら彼の意識は車の進む方向ではなく、かつての恋人が座っていた助手席の一点へと向けられているからだ。

助手席の窓から君と見上げた

夜空の星が消えてゆくよ

ひとつ ひとつ 色を失くすように

(then/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼は窓を見つめ、そこから夜の星空に恋人との思い出を見出そうとする。しかし、窓そのものは固定されていても、景色は決して固定されてはおらず、星は「色を失くすように」消えてしまう。本作と状況が類似する作品として、『あとのまつり』の「tender」が挙げられる。この作品も失恋した語り手が運転中、刻々と進んでいく時間を次のように描写する。

朝焼けが今2人を包んで引き離していく

今更君の名前を呼んでも

夜が君を飲み込んで消える

(tender/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

朝になれば夜空は白んでいき、星を飲み込むように消してしまう。「then」における「星」は「tender」ではそのまま「君」と表現される。後者の語り手も「窓を流れる街が泣いてる」というように、窓から景色の変化を眺めている。この二曲はほとんど同じ状況だと言える。

 さて、こうした窓の景色の変化は、語り手の心象にどのような影響を与えているだろうか。「then」では景色の変化を語り手自身の心の変化になぞらえている。

時は過ぎて 喜びも悲しみも想い出も

君と同じ 

逃げるように この腕をすり抜けて

(then/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

恋人と別れ、日が経つにつれ、彼は彼女と分かち合った感情や記憶を失おうとしている。それは彼が望んだことではない。腕をすり抜けるのは、今まで彼が失わないように抱きしめていたことの証左なのだ。しかし、それでも失われるのは夜空の星が朝焼けで消えていく現象と同じように逆らうことができない絶対的なものである。このことを踏まえた上で、本作の歌いだしをみてみる。

今も同じ歌声に変わらない感情を乗せて放つ

そのつもり それなのに

何か見つける度 何か落としてんだろう

変わらぬ毎日が変えたもの

(then/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

声というのは変声期を過ぎればほとんど変化しないものである。彼は失くさぬように抱きしめていた恋人への想いを歌声にして残そうとするのだが、うまくいかない。「変わらぬ毎日」だと自分で思っていたとしても、日々を積み重ねていけばそれだけ新しい人や出来事に出会い、既に過ぎ去った人や思い出は日常からこぼれ落ちてしまう。すると、たとえ声が依然と同じ音だったとしても、その源ともいえる感情は既に別人のように変わってしまっている。その時、彼は自分の願望が不可抗力の現実の前では何ら無力であることに気づく。

誰か笑う度に 誰かが泣いてるんだよ

色を失くしたのは誰でしょう

(then/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

この部分における「誰か」には、片方に「彼」、もう片方に「彼女」という言葉を当てはめることができるだろう。別れてしまった二人はもう別々の日常を過ごしているのであり、一緒に笑うことも泣くこともない。また「色を失くしたのは誰でしょう」と問えば、それは彼から逃げるように去っていった彼女だと言うこともできるし、新しい日常の中で彼女の存在を忘れようとしている彼自身だとも言える。ここで語り手は「誰か」、「誰」とすることで、意図的に正体をぼかしている。問いの答えは一つではないからである。

 歌詞は終盤へと入る。恋人と別れてもなお忘れたくない思い出を歌声にして表現しようと願う彼は現実を直視することで、彼女を忘れようとしている自分自身を発見する。その上で、「色を失くしたのは誰でしょう」と問う。その答えはどっちつかずである。けれども、それでも彼は答えを一つにしようと決断するのだ。

僕が歩いてきた道のすべては

変えることなど出来ないのに

そうか そうだ 変わったものは

(then/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「歩いてきた道」とは、正しく過去を指している。過去は振り返ることはできても、戻ることは決してできない。それが現実を生きるということなのである。別れた恋人も今やそうした過去の産物と化したのであり、過去であるからには、彼女の方は、その去り方がどのようなものであったとしても別れたその瞬間から何も変わっていないことになる。彼女は既に彼の記憶の中だけにいるだけの、いわば時の止まった存在なのだ。すると変わったのは、と考えた時、彼は「変わったもの」の正体に答えを見出す。

助手席の窓から君と見上げた

夜空の星が消えてゆくよ

空いたシート弱く照らしながら

(then/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

それまで窓に映る星空に依存していた彼の視点が初めて「空いたシート」へと移る。かつて彼女がいたシートはもう空いたのだ、と彼は自らに言い聞かせる。夜空の星が消えていったとしても、「ひとつ ひとつ」と名残惜しく数えることはもうない。つまり、「色を失くした」のも、「変わったもの」も、彼女ではなく自分自身なのだと彼は決断したのである。この時、彼はかつての記憶を映した窓から離れ、彼が一人でいる車内、つまりは現実へと向き合ったのである。ただ、「弱く照らしながら」。星が消えかかっているから光が弱いのだろうか。それとも朝が近づき、微かながら日の光が車内へ傾きつつあることを示したのだろうか。いずれにせよ、最後の最後に「弱い」という情けない単語を使って締めるところがback number特有のニクい幕切れだな、と個人的に思う。

 

 以上、back number「then」について私見を述べてきた。冒頭で既に述べたが、この作品が収録された『逃した魚』は失恋が主なテーマである。しかし、この「then」は失恋というテーマをもちながらも、自分を振った恋人を責めたり、憎んだりといった他責的な思考へは陥っていない。むしろ、そうした思考を否定し、自分は彼女と別れ、そうして彼女を忘れていく、それでも流されるままに現実を進んでいくという前向きな作品だと言える。また、本稿では「tender」を「then」を理解するための補足として扱ったが、こちらも名曲なので、ぜひとも聴いていただきたいものである。