back number「スーパースターになったら」考察──出発のブルース──2/2

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 プライドとは自尊心や既に述べたアイデンティティと類似した概念である。これが複数存在するとはどういうことなのか。プライドとは自分だけがもつ唯一のものだからこそ守りたいものではないのか。こうした疑問を考える上で、1996年、Mr.Childrenが発表した「名もなき詩」は多くの示唆を与えてくれる。いきなりミスチルに話を移して申し訳ないが、本作は「スーパースターになったら」で述べられているプライドが「檻」というメタファーによって表現されているので触れておきたい。

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あるがままの心で生きられぬ弱さを

誰かのせいにして過ごしている

知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中で

もがいているなら

僕だってそうなんだ

名もなき詩/作詞:桜井和寿/作曲:桜井和寿

名もなき詩」は自己省察やラブソングとも解釈できるためテーマは絞れないが、「知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中」は作中で繰り返されるワードである。自分らしさ、とはプライドと近しい単語であり、「名もなき詩」における「あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしている」という誰かとの葛藤は、「スーパースターになったら」における語り手と世界の関係に似ている。誰かのせいで自分は思うように生きることができない、と考える語り手は「自分らしさの檻」を築き、そこに囚われていたのだという。語り手はいわば誰かと檻の二重苦で身動きがとれなくなっている。この構図を「スーパースターになったら」へ当てはめながら考えてみる。

 まず、前提をまとめると、自分は他人ないし世界の中にいる。しかし、自分の周りにだけは檻があり、自由に身動きがとれない。その檻は自分によって無意識に築かれたものである。「スーパースターになったら」において、檻に該当するのは「理由」だろう。彼は世界の流れは速いから自分がいくら力を尽くしたところで無駄な努力だと落ち込むが、これは言い換えれば、行動を起こさないための言い訳が彼を去勢させているのだ。なぜ彼が言い訳をするのかという疑問への答えには、「恥をかくだけだ」という羞恥心が該当する。彼は自らが起こした行動で失敗し、恥をかくことをひどく恐れている。恥をかくとは自尊心(プライド)を損なうことであり、彼の言い訳は羞恥心から端を発して築かれた檻である。すなわち、彼と世界とを隔てる檻とは、世界の分身ではなく彼の分身なのである。

 彼を閉じ込めている檻が彼自身を表しているのであれば、彼の内心には檻の中にいる自分と、檻そのものとしての自分という二つの自我が存在することになる。前者は外に出ようとしており、後者は前者を閉じ込めようとしている。しかし、もとをたどれば檻は彼によって生み出されたものだったはずである。すると、羞恥心によって分裂した自我の片鱗である檻は、彼を苦しめているのではなく、むしろ守ろうとしている、というべきなのである。彼のいう「守るプライドを間違っていた」とは、本来ならば自分を守るための道具に過ぎなかった檻を、いつの間にか自分自身のように守っていた、ということだったのだ。つまり、彼は敏感な自尊心を刺激しない羞恥心の檻の中にいるうちに、自ずと外へ出られない理由を見つけることで檻を強固にするようになっていた。そして、自らをますます幽閉状態へと追い込んでいたのである。このややこしすぎる独り相撲を自覚した時、彼はついに檻から出ていく。本作で繰り返される彼の宣言は、その証左である。恥をかくことを恐れる人間が、「スーパースターになったら迎えにいくよ」などと歌えるはずがない。

君がどこの町に住んでいても

遠くからでもよく見えるような光に

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 スーパースターときいて思い浮かぶ人物やイメージは様々である。しかし、スーパースターに共通するのは、その名声が土地や時代を超越するものだということである。彼は姿を消した恋人を追うのではなく、自身の成長によって追い越そうとしている。それは彼の意識が過去ではなく未来へと向き始めた兆候である。また、もう一点、この描写から推察できるのは、彼の呼ぶ「君」の意味するところがかつての恋人のみならず、過去の彼自身を指してもいることである。彼がただひたすらに恋人の姿を追い求めているのであれば、スーパースターになる決意とは別に、やはり恋人のいる所在を気にするはずなのだ。けれども、彼は「遠くからでもよく見えるような光」を目指した時点で、その問題を諦め、放棄している。この時、恋人の存在はかつて彼を守り、縛り付けていた自尊心と同じく、乗り越えるべき過去の自分を模した象徴として再認識されたのである。このように過去の後悔を未来の成功によって乗り越えようとする語り手は、アルバム『blues』(2012)収録の「平日のブルース」にも登場する。

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僕が歌うこの歌が

遠くの誰かの気持ちを

動かしてまたその人が

誰かの為になってさ

巡り巡って誰かが君を幸せにしたら

あの日僕が君とした約束も

ほら嘘じゃなかったでしょ

って事にしてもらえないかな?

(平日のブルース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

この描写からは、特にその想いがはっきり表現されている。恋人を失った悲しみや自らへの後悔を味わった彼は、その想いを歌という目に見える形によって表現する。彼の起こした行動は直接かつての恋人に届くとは限らない。けれども、檻から外の世界へと発する彼の行動は不特定の誰かには必ず届くものであり、いつかは誰かを救いうるかもしれない。またそれは、その誰かが他の誰かを救うきっかけになるかもしれないのだ。そうした救いの連鎖が、やがて彼が失った恋人まで繋がっていくのなら、それは極めて遠回しに、彼が彼女を幸せにしたことと同じなのである。

そして今度は

目の前の人を幸せにしよう

それだけでどんな過去も

救えるんだ

(平日のブルース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

過去の後悔を清算しきった後は過去から離れ、「目の前の人」に向き合い、現在の相手と自らの幸せを育む。これが語り手の考える過去を救う手立てである。この哲学になぞらえれば、「スーパースターになったら」の語り手の尋常ならざる熱意も理解できるはずである。過去の無念を晴らし、失った自尊心を取り戻す手段は、不格好でも立ち上がり、がむしゃらに走り続ける未来にしかないのである。

二度と何ひとつ諦めない

もう一度好きに

ならざるを得ないような人に

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

 

スーパースターになって

男らしくなった新しい僕で

迎えにいくから

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 以上、「スーパースターになったら」について考察してきた。冒頭で本作がback numberのライブにおける終盤の定番曲であり、「結び」を意味づけられていると述べた。本作は失恋を機に自分の成長を誓った語り手が登場しており、終盤でも「迎えにいくから」との宣言で幕を閉じる。これは明らかに失恋からの出発を描いた作品なのだ。にもかかわらず、本作が結びの一曲として選ばれているのは、結びの否定に他ならない。すなわち、本作や「平日のブルース」で詳しく描かれてきたような決意の表明として、back numberはライブの最後に出発のブルースを叫んでいるに違いない。