back number「君の代わり」考察──引きずりから同伴へ──

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 前回「繋いだ手から」考察の中で、back numberのインディーズ時代とメジャー時代の違いについての私見を述べた。それは失恋経験に対する向き合い方であり、前者は過去の失敗を後悔ないし否定するもので、後者は過去の失敗を含めて肯定しようという違いであった。本稿ではそのもう一つの例として、「君の代わり」についての考察を行っていく。「君の代わり」はシングル『わたがし』(2012)のB面として「平日のブルース」と共に収録された。「平日のブルース」は「わたがし」と共にアルバム『blues』(2012)に収録されているが、本作は外されている。そのため、シングルでしか聴けないという点で「君の代わり」はニッチな作品と言える。

 しかしながら、アルバムに収録されていないからといって、その曲が無用の長物、いわゆる「捨て曲」だとは限らない。例えば、シングル『日曜日』(2012)のB面に「one room」という曲があって、本作同様アルバム未収録だが、この曲はback numberのファンクラブ「one room」と由来ともなった名曲である。

会いたい時はいつだって

私もだよって笑っていたあのコが

昨日さよならも言わず

出ていったよ

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「君の代わり」の語り手はまさに失恋直後の状況にいる。「あのコ」という表現は、恋人だった彼女を敬うあまり、「子」や「娘」といった幼さを思わせる漢字をあてることを避けようとの意識から出てきたものだろう。語り手は、かつて会いたいと告げれば「私もだよ」と笑って返してくれた恋人が別れる時には何も言わずに出ていってしまったと呟いている。その態度はどこか自嘲的で、投げやりな感がある。

蓋を開ければいつも

僕らはいったい何で繋がって

何を失くして離れたんだろう

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「蓋を開ければ」とは、物事の結果や正体が明らかにされた際に用いられる表現である。恋愛の場合、蓋は失恋という結果によって開かれる。そして、語り手は自問自答をすることで、二人の関係の正体を明らかにしようと試みている。しかし、まるで解剖でもするみたく考えてみても、自分と彼女が「何で繋がって」、「何を失くして離れた」についての答えが見つからない。二人で作り上げた関係に一人で答えを出そうとしても無理なのである。

君に会えた事も

会えなくなった事も

きっと意味のある事なんだろう

全部持っていこう

君の代わりに連れて行こう

大好きだった事も認めよう

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

そこで彼が見つめるのは、目の前の現実であった。彼女と出会い、恋をして別れた。この事実だけを取り出して、彼は現実ないし未来を思っている。この答えの出ない恋の結末が、いつか意味をもつ時が来るのかもしれない、と考えている。その上で、「全部持っていこう」と決意する。つまり、付き合い、別れてもなお見えなかった二人の繋ぎ目も切れ目も、それでも恋をしていた自分を含めて認めた上で、悩みながら生きていこうというのである。

 割り切れない問題に対し、答えを出さないことを選択する語り手は「電車の窓から」にも共通したメジャー時代のback numberにおける特徴のひとつである。本作の語り手と並べてみたい作品としては、インディーズアルバム『あとのまつり』(2010)収録の「風の強い日」が挙げられる。「風の強い日」は本作同様、失恋後の悩める心象を春の情景と共に語られている。「風の強い日」の語り手は、必死に答えを出そうともがいている。そして、やはり答えが見つからず、未だ冷め止まぬ恋心に苛まれ、痛ましい自己否定へと陥ってしまうのである。

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あなたの思うような人にはなれなかったよ

あなたが思うよりずっと変わろうとしていたんだよ

足りなかったのはそう不安を吹き飛ばす程の

僕の優しさか強さかあなたへの想いか

それとも弱さを見せられる勇気かな

(風の強い日/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

それでもいつか歩き出して

また同じように誰かを好きになるのかな

もう少しここにいるよ

(風の強い日/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「もう少しここにいる」という「風の強い日」における失恋への態度は、インディーズ時代のback numberの特徴だと思われる。答えが出るまで過去にしがみつこう、現実に置いて行かれても、傷を負ってでもここにいる、という頑なな過去への執着である。「風の強い日」と比べると、「君の代わり」には失恋の悲しみに執着せず、かといって否定もせずに受け止める成長した語り手の姿がみられる。

 ここでひとつ留意させていただきたいのだが、著者はここでインディーズ時代とメジャー時代を比較してその優劣を語ろうというのではない。インディーズ時代のback numberにて表現され続けた繊細さ、まるで鎖に縛られながらもがくような激しさは、このような弱さ、頑固さによって生み出されたものである。また成長とは必ずしも昔より優れたことを意味するわけではない。得るものがあれば、失うものも当然あるはずで、それは物事が変化するにあたって避けられぬ摂理である。

心の中はいつだって

見えないからって

諦めていたんだ

あれが駄目だったのかなって

思うけど

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作の語り手も、自分が彼女と別れてしまった原因について考えを巡らせる。しかし、自問と自責に終始していた「風の強い日」と比べると、本作では自問の後に自答を導き出している。それは彼女の心中、すなわち本心への諦めであった。他人の本心というのは、決して覗くことはできない。思い図ることはできても、それが真実かどうかは分からない。しかし、それでも知りたいと考えるのが人間の性というものであり、相手が恋する相手の心であれば、なおのこと必死に知ろうと試みることだろう。

 彼はそうした欲求を「諦めていた」。それは彼の恋心が冷めたものであったため、ではない。それならば諦めるという表現はふさわしくない。なぜなら、諦めるという決断は、まず満たしたい欲求があって初めて出てくるものである。本作の語り手は失恋した直後でありながら、その心象はことのほか落ちついている。それは彼が積み重ねてきた失恋経験の表れではないだろうか。つまり、彼は彼女の本心を知りたいと強く思いながらも、その欲求が満たされることはないと経験則で知っていた。故に、彼は彼女の本心を諦めることが最も適した選択のように思われたのだろう。

誰かがいつか歌っていた

見えないからこそ信じるんだよ

そんな強い人ばっかりじゃ

ないよ

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼は今までの苦い失恋から得た経験を生かすことで、今度の恋愛こそ上手く立ち回ろうとしたのだが、結局また振られてしまった。諦めるという行動は、経験上正しかったとしても、相手からすれば彼を冷めた人間であるかのように思わせたのかもしれない。この部分ではやや不貞腐れた感情がみてとれる。「見えないからこそ信じる」とは、「誰かがいつか歌っていた」理想のことを言っている。誰かとは世間の言い換えであろう。

 恋愛という現象は個人の極私的で狭い領域が交わされることで成り立つわけだから、世間や社会といった大きな枠の外にあるものだといえる。そのため世間で語られる恋愛の諸相は、しばしば大雑把であったり理想的であったりし過ぎる。そのような物言いは、世間の外で本当に恋愛をしている者たちにとっては全くの綺麗事、あるいは自分たちとは別世界にある絵空事の恋愛のようにしか思われない。

 これはback numberについて述べている本稿の筋とは離れるが、2019年にOfficial髭男dismが発表した「pretender」は、そうした恋愛と世間の齟齬を歌っている。

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誰かが偉そうに

語る恋愛の論理

何ひとつとしてピンとこなくて

飛行機の窓から見下ろした

知らない街の夜景みたいだ

(pretender/作詞:藤原聡/作曲:藤原聡)

「pretender」においても、世間は「誰か」と表現されている。もちろん作詞者が異なるので一様にこれがどうだとは言えないが、それにせよ「飛行機の窓から見下ろした」、「知らない街の夜景みたいだ」という比喩の素晴らしさといったらない。この比喩は世間特有の俯瞰的な物言い、物の見方に対するアイロニーとして効果を上げている。高い位置から夜の街を見下ろした時、そこには点々と灯る光が印象的に映し出される。家宅から漏れ出たものであったり、外灯であったりがその出元だろう。

 街を照らす光の数々は鮮やかであり、窓から見下ろす人間の目には、その街の全てが美しいもののように思われる。しかし、その実際の街がどうであるかということは、地表に立っている人間にしか分からない。そして、光がいくつもあったとしても、隙間には必ず闇が隠れているものだが、上から見下ろしている人間にはそれが分からないし、闇の中にいる照らされない人達の存在にも気づかないで、光そのものや、あるいは光に照らされている人達だけをみて、その街を語ってしまう。これが世間と恋愛の齟齬である。

 更に「pretender」では両者のすれ違いが「僕」と「君」の関係と並べられてもいる。作中で「僕」が何度も繰り返す「君は綺麗だ」という言葉は、飛行機の窓からみた街の景色に感じる綺麗さと違いはない。つまり、どれほど彼が彼女を想っていたとしても、二人の関係が薄いあまりに「綺麗だ」や「好きだ」とか言った言葉へ重みを与えられないのだ。「pretender」の語り手が世間との齟齬に気づけるのは、彼自身が彼女との間に感じる距離感が、それと全く同じだったからではないだろうか。つまり、自分は彼女の上面しか知ることができないという悲しみや寂しさが、彼に俯瞰の孤独を知らしめたのである。

そのうちきっと僕らは

一緒にいない事が

続いてそれが普通になって

それで それでここには

何が残るんだろう

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「君の代わり」に戻る。本作も終盤である。彼女と別れた後、彼は「何が残るんだろう」と考える。「ここ」とは、前述した「風の強い日」における「ここ」と同様、過去や思い出を指しているのだろう。明日から彼女のいない日々が始まるのに、このまま気持ちだけ立ち止まらせて何になるのだろう、と彼は自問する。

全部持っていこう

君の代わりに連れて行こう

離れるのは嫌だと認めてしまおう

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

そして、噛み締めるように「全部持っていこう」、「連れて行こう」と自答する。これから始まる生活に彼女はもういないのなら、今ここにある悲しみや後悔をその代わりにしようという。本作にて繰り返される「認めよう」、「認めてしまおう」とは、諦めることと同じようで違う。諦めるとは、結果を知った上で考えることを放棄したことだと言えるが、認めるとは結果を知った上で現状を見つめ続けることである。彼は経験を積んだからこそ陥ってしまった諦観を自覚した。そして、そんな自分を見直し、失恋の未練と共に生きていくことを選んだのである。

 以上、「君の代わり」について述べてきた。本作は失恋の未練を自らの一部として引き受ける語り手が登場した。未練をもったまま生きていく語り手自体は『あとのまつり』収録の「あとのうた」にも出てくる。しかしながら、インディーズ時代の「あとのうた」の引き受け方は、

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僕は少し強くなって生きてるんだ 本当だって

君がいなくたって大丈夫なんだ

それに今君を考えているのだって

引きずっていれば削れてなくなるって計算の上さ

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

というように、引きずりながら生きていく、という障害としての未練である。しかし、本作で描かれた未練の引き受け方は、引きずりというより同伴だといえる。両者の違いは未練を消したいもの、邪魔なものだと考えているか、欠かせないもの、大切なものと考えているかという点だろう。未練の捉え方に正解はないのだろうし、「あとのうた」の語り手にある悲しみを裏返したような勢いは、未練を自分自身の燃料としたものであって、それはそれで良いのである。このようにデビュー時から一貫して失恋というテーマを描かれ続けていることで語り手の成長や変化を見るという鑑賞ができることが、back numberのもつ最も大きな魅力ではないだろうか、と個人的に思う。