back number「繋いだ手から」考察──失恋のカタルシス──

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恋があたえうる最大の幸福は愛する女の手をはじめてにぎることである。

生島遼一鈴木昭一郎訳『スタンダール 恋愛論人文書院、昭和38年、84頁)

 19世紀、『赤と黒』などを著して近代小説の先駆者といわれたフランスの作家スタンダールは、『恋愛論』の中でこのように述べている。古い時代に出された格言だが、現代の恋愛でも手を握ることは恋する相手との関係を深めるための最初期の関門として、重要な意味をもっている。言わずもがな現代恋愛の表現者であるback numberの作品描写にも、手を繋ぐという行為がみられる。本稿では「繋いだ手から」に描かれた失恋とカタルシスの問題について、手にまつわる他作品との比較を交えながら考察を行っていく。

 「繋いだ手から」はシングル『繋いだ手から』(2014)、アルバム『ラブストーリー』(2014)に収録された作品である。ベストアルバム『アンコール』にも選ばれているのだが、その割には知名度が低い(気がする)不遇な作品でもある。スタンダールは手を「にぎる」という言い方、訳され方をされているが、back numberはそのタイトルから分かるように「繋ぐ」と表現している。どちらも同じようだが、前者は自らが相手の手を握る、あるいは握ることを許されているということに幸福の重きを感じており、後者は自らが相手の手を握り、同時に相手が自分の手を握り返していることに幸福の重きを感じている点で異なっている。

ここに僕がいて 横に君がいる人生なら

もう何もいらない 嘘じゃなかったはずなのに

電話握りしめて 朝まで口実を探していた

胸の痛みはどこにいたのか こんな事になるまで

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

本作の語り手は失恋後の生活を過ごしており、別れてしまった恋人への未練を口にする。かつて復縁のきっかけをつくろうと電話をしようとしたが、口実が見つからないまま時間が経ってしまったという状況にいるようである。彼は恋人が横にいてくれさえいれば何も要らないとの考えを「嘘じゃなかったはずなのに」と振り返っている。つまり、結果からすれば、それは嘘になってしまったというのである。彼が恋人と別れた理由は描かれていないが、何やら彼の方に落ち度がありそうである。

何もできない君なら 何でも出来る僕になろう

誓った夜の僕には 何て言い訳して謝ろう

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

ここでも彼女と別れるに至ってしまった自分とかつての自分との落差が嘆かれている。相手の不足を補う存在として自分を意味付けようとするのは不安な心境の表れといえる。彼は彼女のことは自分の横にいるだけでいいと考えているが、彼自身は彼女の横にいるだけでは不釣り合いだと感じていたのである。そこに「胸の痛み」が生じていたのだろう。仮に彼が浮気をしてしまって彼女と別れたのだとすると、原因はこの不安にあったはずである。つまり、彼は恋した彼女に見合えるまでに十全な人間であろうと努力してきたが挫折してしまった。彼は不安から逃れるために気持ちを他へ移してしまうようになり、また依存するようになり、ついにそれが彼女に発覚するなどして取り返しのつかない事態になってしまった、というわけである。

繋いだ手からこぼれ落ちてゆく

出会った頃の気持ちも 君がいてくれる喜びも

僕はずっと忘れていたんだね

離した手から溢れ出してくる

今頃になって君に 言わなきゃいけなかった言葉が

見つかるのはなぜだろう

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「繋いだ手から」、「離した手から」という連続した流れは、インディーズアルバム『逃した魚』(2009)の一曲目「重なり」を連想させる。「重なり」の語り手は「繋いだ手から」とは違い、落ち度のない(あるいはそれを自覚していない)振られ方をしているのだが、ここでも手に関する描写がある。

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朝まで笑って重なり合って繋いだその手が

まだ心の片隅で繋がっているなら

(重なり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

今更もがいて確かめたって離れたその手は

もう知らない誰かと繋がっているから

(重なり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「重なり」における「繋いだその手」、「離れたその手」という連続した流れは、本作のそれと酷似している。このことを念頭に置いて本作に戻ってみると、「繋いだ手からこぼれ落ちてゆく」の手の先にいるのは「重なり」でいう「知らない誰か」であり、「離した手から溢れ出してくる」の手の先にいるのが別れてしまった彼女ではないか、との推測がたてられる。つまり、本作の語り手には新しい恋人がおり、その上で前の恋人への未練を抱いていることが分かる。ここでひとつ擁護をしておくと、既に次の恋愛に進みながらも前の恋愛への未練を抱く語り手は本作に限ったものではない。シングル『花束』(2011)のカップリング曲「だいじなこと」には、そうした語り手が出てくる。新しい恋人と過ごす中で、かつての恋人との間で解決できなかった問題の答えを見つけるのは、決して現在ないし過去の恋人に対する不誠実さを表さない。それどころか、別れてもなお自省を続ける誠実さを強調したものである。

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もしあの日君と 出会えてなかったらきっと僕はまだ

もっと卑屈で もっとセンスのない服着てたろうな

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

よく笑ってよく食べて よく眠る君につられて

僕は僕になれたのに 全部分かっていたはずなのに

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「繋いだ手から」の語り手に新しい恋人の存在が匂わされているのは、彼の成長を示したものである。彼は彼女に見合える人間になりたいという意欲から、卑屈な性格を改善したり、センスという対外的な意識を身につけたりしたのだ。その後ろ盾として、「よく笑って」、「よく食べて」、「よく眠る」という、取り繕わずに全てをさらけ出し、それでいて魅力的な彼女の存在があった。彼女を通じて彼は、彼女と別れてからも次の恋人が早々に現れるまでに魅力的な人間へと成長できたのである。彼女と破局した後になって、ようやく彼はそれを胸の痛みと共に思い出したのだ。

美しい花でも石コロでもなくて

贈るべきだったのは そんなものじゃなくて

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼女と別れる直前、彼は少しでも彼女を引き留めようとあがいたのだろう。「美しい花」や「石コロ」は恐らく宝石だろうが、彼はそういったテンプレートの贈り物でどうにかしようとしたのだ。しかし、彼が贈るべきだったのは「言わなきゃいけなかったこと」というように、形ある物より、そこへ込められていたはずの本心と言葉であった。彼が彼女に見合う人間になるために対外的な価値観であるセンスを手にしたことは既に述べたが、この部分にはそうした「一般的な視点」による罠も示されている。センスを手にし、他人に好かれる姿や物を学ぶことは、多くの人に喜ばれたり、好かれる可能性を上げたりできるといったメリットと共に、普通はこうすれば上手くいく、普通はこれをあげれば喜ばれるといった考えから、時によって彼を相手固有の価値観や好みといった肝心な部分を無視した一方的な押し付けへと走らせるリスクをも生じさせていたのである。彼はそんなリスクのもたらす行動を、最もしてはいけない場面に際したところでやってしまったのである。

繋いだ手からこぼれ落ちてゆく

出会った頃の気持ちも 君がいてくれる喜びも

僕はずっと忘れていたんだね

離した手から溢れ出してくる

今頃になって君に 言わなきゃいけなかった言葉が

やっと見つかったからさ

 

さっき見つかったからさ

(繋いだ手から/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 これが本作の結びである。彼は彼女と出会ったことによって得られた自身の成長とそれでもまだ至らなかった部分を反省し、自覚することでまた成長していることがみてとれる。本作を一度聴いていただければ分かるのだが、この「繋いだ手から」という曲は、失恋にともなう未練というテーマを扱った歌詞でありながら、曲調は穏やかで明るいのである。反して、本稿にて「繋いだ手から」の類似作品として挙げた「重なり」は激しく暗い曲調である。この両者の違いは語り手の置かれた時期によって生じていると考えられるが、ここには、インディーズ時代のback numberとメジャー時代のback numberの違いも指摘できるのではないだろうか。つまり、かつて恋人と手を通じて繋がれ、今や離れたという現実を掻き消そうともがき、嘆き続けるのが「重なり」だったとすれば、新しい相手と繋がった後でも、かつての恋人と手が離れたことを忘れていない「繋いだ手から」は、失恋の未練を、成長した自分自身の一部として受け入れている。すなわち失恋という悲しい過去を糧にして、現在を懸命に肯定していく境地へと達しているのだ。その点において、本作は失恋の悲しみを徹底して追及したインディーズ時代と、そうした悲しみの先にあるカタルシスを表現するまでに至ったメジャー時代とを分ける象徴的な作品のひとつだと評することができるだろう。

 以上、「繋いだ手から」について考察してきた。手という単語にこだわると、他にもアルバム『blues』(2012)に収録された「エンディング」や「恋」、「わたがし」など沢山あるのだが、それだとまったく収拾がつかなくなるので本稿では「繋いだ手から」を中心にすることでまとまりを作れるようにした。恐らく手を繋ぐという行為は、back numberの作品において、現在の私が考える以上に広く重い意味をもっているのだろう。とりあえず本稿を書き終えるに至り、このテーマは安易に手を出していいものではなかったな、と思い知ったところである。