back number「怪獣のサイズ」考察──性欲のユーモア──

www.youtube.com

 back number「怪獣のサイズ」は、本年8月4日に発表された配信シングル曲である。本作の内容を簡単に述べると、好きになった女性に既に恋人がいたという男の失望と後悔をコミカルに歌い上げたものである。本作には曲と併せてミュージックビデオも制作されており、「怪獣のサイズ」はback numberのミュージックビデオで珍しく、作中にメンバーが一度も登場しない映像となっている。

 「怪獣のサイズ」は片思いの挫折を描いたものであり、過去の作品ではシングル『僕の名前を』(2016)に収録された「パレード」が類似している。また、アルバム『ラブストーリー』(2014)収録の「高嶺の花子さん」にも(あくまで妄想だが)想いを寄せる女性にいる恋人の存在を考えて落ち込む男が登場する。この三作品に共通するのは、語り手の葛藤や失望をコミカルに、つまりはユーモアを交えて語る点である。さらにもう一つ、そのユーモアを発揮する場面が、語り手の性欲にまつわる問題に触れている点も見逃すことはできない。本稿ではback numberにおけるユーモアを交えた性欲表現について考察していく。

ああ そりゃまぁそうだな

僕じゃないよな

そして君は運命通りに

どうか そいつと不幸せに

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作はこのようなボヤきから始まる。これがたまらない。愛しの人に恋人の存在があると明らかになった時、彼は「不幸せに」とやっかみを言っているのだが、相手と自分が結ばれないことは「運命通り」だと考えているのである。相手を恨めしいと思いつつも結局は相手が好きだから自己嫌悪に陥るという片思いの空しさがここにはある。本作はミュージックビデオと並べて鑑賞されることが望ましい。メンバーが登場しないということもあってか、ミュージックビデオには本作を味わう上での重要な場面が多いのである。例えば、ビデオ内では矢本悠馬氏がいかにも優男の語り手を演じておられる。そして、時折場面が切り替わって怪獣が登場し、情けない語り手を窓から覗いたり、想いを寄せる女性の交際相手と思われる男性をわが手で滅ぼさんと光線を浴びせかけたりする。しかし、決して破壊できないどころか、傷一つも付けられない。この辺りから、怪獣は語り手の内心を具現化したものだということが分かる。

僕の胸の中にいる

怪獣のサイズを

いつだって伝え損ねてしまうけど

君がみたのは ほんの一部だ

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手曰く、怪獣とは自らの胸の中、つまりは心の中にいるらしい。この描写で興味深いのは、彼が彼女に伝えたいのが怪獣の存在ではなく、あくまでサイズだということである。彼は彼女に自らの怪獣がいることは既に伝わっているけれど、そのサイズは伝わっていないはずだ、と考えている。ミュージックビデオでは語り手と思われる男が恋する女性に対して指輪や花束を贈る場面があり、女性はことごとく男のものよりも大きな宝石の指輪や数の多い花束を彼に見せつける。すなわち彼は自身が彼女にかける想いが、彼女が恋人から与えられている想いのサイズに適っていないことを知り、打ちのめされているのだ。しかし、諦めきれない彼は、それは「伝え損ねて」いるだけで、証拠はないけど本当はもっと大きなサイズなんだと負け惜しみを言っているわけである。

何も壊す事が出来ずに

立ち尽くした怪獣が

僕の真ん中に今日も陣取って

叫んでるんだ

嫌だ!嫌だ!君をよこせ!って

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 怪獣とはどうやら彼の想いを表すものらしい。けれども、想いというだけでは答えにならない。怪獣の中身に潜んだ想いとはどのようなものか、と踏み込んで考える時、この描写は作中で最も重要である。怪獣は何かを壊そうとしているが果たせず、立ち尽くしたまま叫んでいる。壊す事のできないことを叫んでいるわけだから、破壊とは怪獣のもつ目的であり、存在意義でもある。怪獣が壊したかったもの、そして欲したものは「君をよこせ」というように、彼女である。もっとも「壊す」という願望は彼女自身ではなく、語り手と彼女の間にあった関係の隔たりなどに向けられているのだろう。

 本稿の冒頭にて、back numberのユーモアには性欲が関わっていると述べたが、本作における性欲の問題もまた、この描写である。そもそも相手を恋する想いの中に性欲が含まれることは言うまでもない。しかし、ミュージックビデオをみる限り、怪獣は本能のままに彼女にキスをし、押し倒す(※看板に描かれた彼女ではあるが)。そして、ミュージックビデオ後半では彼女自身が巨大化することで本当にキスをする場面もある(※怪獣の大きな口に彼女が顔をつっこむ形ではあるが)。また、そもそもこの歌詞からして、「立ち尽くした怪獣」とその行動が、明らかに勃起した男性器のメタファーなのである。怪獣もとい性欲が「君をよこせ」と不満に喘いでいるのだ。ただ、いきなりペニスの問題を出すのは突飛過ぎるから、ここで一度back numberの作品の中で語り手の性欲が登場する場面をいくつかみてみる。

www.youtube.com

さぁ堪えよう彼だけに見せる

あんな姿こんな姿の

君など想像してないで

あぁなんで 僕だって見たいのにな

(パレード/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

www.youtube.com

君を惚れさせる 黒魔術は知らないし 海に誘う勇気も車もない

でも見たい となりで目覚めて おはようと笑う君を

(高嶺の花子さん/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

これは冒頭にて触れた二作品における描写である。「あんな姿こんな姿」、「となりで目覚めて おはようと笑う君」のいずれも恋する相手との肉体関係を望む性欲が描かれている。ただ、それでも「パレード」、「高嶺の花子さん」はまだ性欲を匂わせる程度の間接的な描写に留まっている。けれども、この二作品の後、back numberはより性欲を包み隠さずに描いた作品を発表しているのだ。それはシングル『瞬き』(2017)のカップリングとして収録された「ゆめなのであれば」である。「ゆめなのであれば」は想いを寄せる女性が夢の中に出てきた男の妄想を語ったもので、男は相手に抱きつかれたり、手を繋いで歩いたり、笑わせたり歌わせたりとやりたい放題の内容は、ほぼ夢精譚である。本作では前の二作にはない直接的な性欲の描写がみられる。

www.youtube.com

このまま手を離さなければ 覚めないで済むのかな

そして君と夢の中 嗚呼 胸触りたい

(ゆめなのであれば/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「胸触りたい」。ここまで露骨な描写は過去の作品に類を見ない。そして、この作品の発表をもってback numberはサザンオールスターズの「エロティカ・セブン」ばりに開けっぴろげにされた性欲を堂々と表現できる、そこまで言ってしまっても公衆に許される地位にまで到達したと断言できる。そのため、この「ゆめなのであれば」という作品がある事実上、「怪獣のサイズ」における男性器のメタファーの仮説についても、やはり有り得ないとは言えないはずである。その点を踏まえ、「怪獣のサイズ」はカップリングではなくアルバム曲でもなく、一曲単体のシングルとして発表されていることからも、「高嶺の花子さん」以降のback numberにおける史上屈指の挑戦作であることが分かる。

ああ 君に恋をしてさ

嫌われたくなくてさ

気付けばただの面白くない人に

違ったそれはもとからだった

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 作品が二番に入ると、怪獣の描写から語り手がとった行動の描写となる。ここでは不満に暴れ回る怪獣と比較されることで弱々しい語り手の姿が強調されている。相手に嫌われたくないがゆえに波風の立たない無難な接し方をしていた結果、「ただの面白くない人」になっていたのだと彼は言っている。本当はもっと面白いことも言えるのに、という歯痒い思いに苦しむ語り手は、シングル『思いさせなくなるその日まで』(2011)のカップリングとして収録された「はじまりはじまり」に詳しく描写されている。個人的に、「怪獣のサイズ」の語り手には、これまでのシングルアルバムのカップリング曲の主人公たちの要素が寄せ集められたような印象を覚える。また、「ただの面白くない人」に対して「それはもとからだった」などとツッコむ辺りの隙も容赦もない自己嫌悪は、彼女に恋することで張り切っていた自分を自嘲的に評価するものだが、back numberの作品に出てくる片思いの語り手たちは、恋愛を単なる快楽の遊びではなく自己変革のきっかけにしている点で多く共通している。

馬鹿な僕も優しい僕も

傷も牙もずるいとこも

全部見せなくちゃ駄目だったな

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作の歌詞はメタファーもそうであったが、シンプルなようで実は難解な描写が多い。この部分も一見すると相手に嫌われたくないが故に当たり障りのない態度をとってしまったことへの後悔だと単純に理解できる。が、なぜ「全部見せなくちゃ駄目だった」のかについては一考を要する。「傷も牙もずるいとこも」というのは語り手の性格というよりは裏向きになった人間の本性を指している。人は皆、他人から受けた傷をもっているし、また他人を傷つけた牙をもっているものだろう。だが、一般的にあり得る考えとして、恋する相手には格好の良い自分の姿だけを見せたいとはならないのだろうか。自分に自信のない本作の語り手のような人物であれば、なおのこと自分の傷という弱い一面や、牙という攻撃的な一面は隠したいと思いそうなものである。むしろ、傷や牙を見られる前に振られてよかったとは思わなかったのだろうか。

僕の胸の中にある

君宛の手紙は

最後まで渡しそびれ続けたけど

本当は傑作ぞろいなんだよ

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

そうした疑問に対する考察には、語り手の手紙にまつわる後悔が多くの示唆を与えてくれる。通常、手紙というのは遠くにいる相手に対して自分の気持ちを綴ったものだが、ラブレターの場合はやや事情が異なる。近くにいる相手に直接言えない本音を紙にしたため、相手に渡すのである。ラブレターとは愛の告白における手段だけを遠回しにすることで相手との間に生ずる気まずさを緩和させるのに有効な手だと言える。だが実際、遠回しであっても、相手に伝わる内容は直接告白した場合と何ら変わりはないのである。しかし、相手に自分の全てをさらけだせない語り手は、傑作の手紙を綴ることはできても渡すことはついにできなかったのである。

僕の腕の中に誘う

ただ唯一の合図は

ゴジラカネゴンだって僕だって

違いは無いんだ

嫌だ!嫌だ!君をよこせ!って

言えばよかった

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 これが本作の結びである。合図というのはサイズとの韻を踏んだものだと考えられるが、重要なのは合図という言葉が相手に対して自分の気持ちを伝える行為だということである。語り手はその後にゴジラ(初代ゴジラと仮定した場合:体長50m)、カネゴン(体長2m)、僕(清水依与吏と仮定した場合:体長169.8cm)というように、怪獣と自分自身をサイズの大きい順から並べている。そして、合図にはどれにも違いはないのだと主張する。それは先ほどの後悔と通ずるもので、あるがままの自分を相手に見せることが重要だったのだから、自分のサイズが周りよりどれだけ小さかろうとも関係ないということである。冒頭で触れたが、ミュージックビデオ内では、語り手とみられる男性が想いを寄せる女性の恋人との想いのサイズに臆してしまう場面があり、その度、語り手は贈り物を渡すことができない。指輪は懐にしまい、花束は食いちぎってしまう。語り手の後悔とはまさにその行動だったのである。サイズ感など気にしないで、とにかく渡してしまえばよかった、と嘆いているのだ。

 以上、「怪獣のサイズ」について述べてきた。本作では片思いという状況における性欲と後悔を怪獣というキャラクターに託すことによってユーモアを与え、悲観的ないし自嘲的でありながらも明るく表現することに成功している。そして、これまでの「パレード」、「高嶺の花子さん」ではみられなかった、そして「ゆめなのであれば」でその片鱗を見せた具体的な性欲の描写を巧みに取り込むことで、本来であれば言い難くなりがちなテーマを高らかに歌いあげている。本年一月、back numerはアルバム『ユーモア』を発表した。このアルバムはタイトル通りユーモアを前面に出した曲が並んでいる。そして、このアルバムに連なる形で世に送り出された「怪獣のサイズ」は、これまでback numberが失恋ソングの中で繰り返してきた自己否定を連続する形から、自己救済・肯定へ至る形へ変化したことを明確に示した作品だとも言える。そして、否定から肯定へと移るための鍵として、彼らはユーモアという着ぐるみを手にしたのである。