back number「君がドアを閉めた後」考察──「月やあらぬ」は蘇る──

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月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

(『伊勢物語』第四段)

 『伊勢物語』において、「月やあらぬ」が作中屈指の名歌であることに疑いはないだろう。「むかし、をとこ」という有名な書き出しで始まる伊勢物語は、昔こんな男がいた、というエピソードの羅列された物語集であり、そのモデルは一般に在原業平とされている。内容の大半は失恋体験であり、「月やあらぬ」の歌が載せられた第四段もその一つである。まず第四段の内容を端追って紹介しておく。東の五条にある館で暮らしていた女に恋していた男は、その想いを果たそうと館に通っている。しかし、突然女は男の前から姿を消してしまった。男はすぐに女の身元を探し当てたが、その行き先は身分上の問題により、男がこれまでのように通える場所ではなかった。男は女との別れを確信する。翌年になっても想いが断ち切れなかった男は、再び五条の館へと訪れる。しかし、男の期待に反して、そこにはかつての思い出が何一つ無く、その面影すらも見つけられなかった。そうして男は「月やあらぬ」の歌を詠み、泣く泣く帰っていったというあらましである。

 「月やあらぬ」を浅学ながら意訳すると「この月はあの夜の月とは違うのか。この春でさえ、あの時の春ではないのか。ここにいる私は、あの頃のままなのに」である。伊勢物語が成立したのは実に200年以上も前の話である。けれども、本歌は現代においても恋した相手に去られてしまったという失恋を体験した者ならば、共感すること請け合いである。そして、このような時代を超えて受け継がれてきた失恋の感傷を、舞台を現代に移し替えてリバイバルした天才がいる。back numberである。

 back number「君がドアを閉めた後」は、シングルアルバム『高嶺の花子さん』(2013)が初出、その後、メジャーアルバム『ラブストーリー』(2014)、ベストアルバム『アンコール』に収録された。シングルのカップリングでありながらアルバム曲、果てはベストアルバムへとのし上がったいぶし銀の一作である。本作は失恋後、同棲していたと思われる恋人が去り、一人暮らしとなった男の心境を歌ったものである。

線路沿い家までの道を

缶ビールと想い出を一人ぶら下げて

サンダルのかかとを引きずって歩く

僕を自転車が追い越して離れてゆく

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

缶ビールをもち、サンダルでかかとを引きずって歩く男。自堕落な情景から本作は始まっていく。歩き方からして、彼は家までの道をゆっくりと進んでいるようだ。それは疲れ果てているのでそうするほかない、もしくはできれば帰りたくないという意識の表れだろう。彼の傍には線路があり、後ろからは自転車が走ってきて、彼を追い越す。

君とよくこの道を商店街の帰りに

近道でもないのになぜかいつも通って帰ったね

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼の引きずる想い出とは、かつての恋人と過ごした生活の記憶である。想い出は彼のいる帰り道にさえ顔をのぞかせて、足の進みをますます重くさせる。彼の心中は過去で満たされている。身体は当然ながら現在にあるが、後ろから追い越していった自転車を見やり、その距離を意識する辺り、彼は自らの生活が過去の想い出によって停滞していると考えているのだろう。

君がいればなあって思うんだよ

服を選ぶ時玄関のドアを開けた時

新しい歌ができた時

君ならなんて言うかな

君がいればなあって思うんだよ

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 停滞の原因は言うまでもなく失恋である。「玄関のドアを開けた時」というのは、外から玄関へ入る過程を指している。今外にいる自分が部屋で彼女が待っていたらいいのに、と考えているのである。けれど、そんなことがあるはずもなく、ドアを開けても暗い部屋があるだけなのを知っているから、彼は帰りの足取りが遅い。つまり、彼は失恋の自覚を既にしていながらもなお、それを避けようとしているのだ。前後にある「服を選ぶ時」、「新しい歌ができた時」は、彼女に恋をしていた彼が、生活における善し悪しを決める基準を全て彼女の反応に委ねていたことの証左である。彼女を失った彼は、服屋で服を選ぶ時も、新しい歌ができた時でも、それが良いのか悪いのかという価値判断ができなくなってしまっている。失恋後、日常の中でかつての恋人の面影を求める心情は山崎まさよしの「One more time, One more chance」にもみられる。

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いつでも捜しているよ どっかに君の姿を

向いのホーム 路地裏の窓

こんなとこにいるはずもないのに

One more time, One more chance /作詞:山崎将義/作曲:山崎将義

One more time, One more chance」と本作を比べてみると、前者が恋人の面影を日常の風景や場所に投影しようと試みているのに対し、後者は「時」というように、日常の行動や場面に投影しようとしていることが分かる。特定の場所によって別れた恋人を思い出すという場合、苦悩を避けるには単にそこへ行かなければいいだけである。しかし、日々の行動の中で別れた恋人を思い出してしまうとなると、これは避けようがない。部屋を変えようが町を出ようが、彼の苦悩に何の影響も与えられない。

何度目が覚めても君はいなくて

だけど目を閉じると君がいて

季節は巡るからこんな僕も

そのうち君の知らない僕に

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 去ってしまった恋人は、目を開けている間にはいないのに、目を閉じている間には彼の前に現れるのだと彼は言う。彼の意識は時間の刻々と進む現実と静止した夢の間を行き来する。しかし、人は生きていく上で夢ばかりみていることはできないのであり、結局は現実に引き摺られていく。彼が目を閉じている間も季節は巡っていき、閉ざした視界の外にいる彼の姿さえ変えてしまう。

君が気に入ってた雑貨屋も

今はなくなって別の店が入ってて

角の花屋もそういえばあのアパートも

僕は今でもあの時のまま

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

そうした心身の間のギャップに気づく時、彼は「月やあらぬ」の男と同じ心境へと至るのだ。

 二人で暮らしていた町は、時を経るごとに変化する。昔あったものはなくなり、新しいものがその隙間に置かれていく。そうして町の風景は移り変わっていくのだ。彼がどれほど彼女のことを考えていようとも、彼の日常は彼女なしに進んでいき、彼の気付かないうちに彼の記憶から彼女の姿は消えていく。そうしていつか空いた心の隙間を埋めるように新しい恋へ踏み出す時には、彼はもう「君の知らない僕」になっている。それは彼にだけ言えることではなく、彼の元を去っていった彼女とてそうなのである。彼女は彼女で日常を過ごし、心身ともに変わっていくのだ。一方で彼が抱き続ける彼女の姿には、何の変化も訪れない。故に、彼の見ている彼女は実際の彼女と似ているようでも全くの別人といえる。それは時間の静止した彼女の偽物であり、いわば彼女をモデルにした傀儡に過ぎないのである。

君がいればなあって思うんだよ

靴を選ぶ時玄関のドアを閉めた時

新しい歌ができた時

君ならなんて言うかな

君がいればなあって思うんだよ

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 ここまでみてみると、中々救いようのない内容である。本稿では「君がドアを閉めた後」の語り手が失恋によって過去に囚われてしまったという観点から考察してきた。その上で本作のタイトルに目を向けると、「君がドアを閉めた後」とは、失恋の後日談を指すものだという解釈と共に、ドアを開閉する行為が、時の進み・止まりに影響しているとも考えられる。本作の中で彼は、「ドアを開けた時」、「ドアを閉めた時」と、ドアの開閉をどちらも行っている。常識として、ドアを開けたのだからそりゃ閉めることもするだろうと考えることもできる。しかし、タイトルからして、重要なのはドアを閉める行為だと思われる。

 彼と別れて新たな日常を生きることを選んだ彼女は、ドアを閉める、つまり、彼とその思い出を置き去り、出ていったのである。そして、彼は本作の結びの場面にて、彼女と同じ行動に出ている。ドアを閉める行為には二通りの状況があって、一つは部屋に入るために開いたドアを閉める場合、もう一つは部屋を出ていくために開いたドアを閉める場合である。本作におけるドアの描写もまた、二通りである。「服を選ぶ時玄関のドアを開けた時」、「靴を選ぶ時玄関のドアを閉めた時」の二つである。冒頭が家までの帰り道を描かれているので一見勘違いしそうになるのだが、「服を選ぶ時」、「靴を選ぶ時」は、いずれも家の中から外へ出る際にとる行動である。つまり、彼女を想いながら帰り道にある冒頭の時点で、彼は既に彼女との記憶を閉じようと試みていたことになる。

 愛する恋人を失った人間がひとりきりで服や靴を選ぶ時に、あの人ならどう言うのだろう、と考えたとする。そして、答えが得られないという場合、大方の人間はそれでも自分が選んだ服と靴で外へ出るだろう。そうするほかないのだから。誰かの好きな服や靴ではなく、自分の好きな服や靴を身に着けるということは、本人の願望とは関せずとも、好かれたい相手を慮った作られた自分から、本来の自分を取り戻すきっかけになる。彼は彼女を想いながら日常を過ごす度に、少しずつ現実へと戻っていくのだ。

 冒頭で彼は線路沿いの道で自転車に追い越されており、ここには彼の過ごす時間が現実との間で遅れを生じていることが示唆されていると本稿では述べてきた。これに加え、もう一つ仮説を述べたい。それは線路沿いを歩く彼を取り巻く状況についてである。恐らく自転車に追い越される前まで、彼は脇の線路を走る電車にも追い越されていたはずなのである。自転車と電車の速度は比べるまでもなく、彼を追い越す車両に現実との遅れを見出す場合、自転車に追い越される彼と電車に追い越される彼もまた、大きく異なっている。つまり、かつて彼の過ごす時間と現実との遅れは、電車という人力ではとても追いつけないほどの速さをもつ車両との差まで離れていたのである。もはやそれは遅延どころではすまないまでのところまで彼は陥っていたのである。しかし、日々が流れていくうち、彼は自らを取り戻し、現実との差は自転車と徒歩までに近づいた。つまり、本作で語られている心境は失恋からしばらく経った時点のものだと考えられる。

 Mr.Childrenのアルバム『IT'S A WONDERFUL WORLD』(2002)収録の 「渇いたkiss」という曲には、本作同様に恋人に振られてしまった男の心境が語られている。ここでは別れてしまった恋人に抱き続ける想いが胸の傷として描写されている。男は恋人にも同じような傷が残っていて欲しいという恨み節を、からかうように語る。

ある日君が眠りに就く時 誰かの腕に抱かれてる時

生乾きだった胸の瘡蓋がはがれ

桃色のケロイドに変わればいい

時々疼きながら

平気な顔をしながら

(渇いたkiss/作詞:桜井和寿/作曲:桜井和寿

「桃色のケロイド」は傷が治っても跡として身体に残り続ける。恋人に傷をつけた側である男は、それが綺麗さっぱり無くなって欲しくない。別れてしまった今、傷だけが二人を繋ぐ唯一のものだからだ。胸の傷ないし傷跡は、新しい恋人ができても自分を忘れて欲しくない、あの人を忘れたくない、という未練の表現なのである。

 さて、この傷跡という切り口から、もう一度「君がドアを閉めた後」へ戻り、ここで度々登場する「君がいればなあって思うんだよ」というボヤきを考えてみる。失恋から時が経ち、生活の中で彼は自らを取り戻しつつあるわけだから、実は彼にとって彼女の存在は、さほど必要なものではなくなってきている。むしろ、今や要らないものである。それなのに、どうして彼は彼女を欲するのか。恐らく彼は「君がいればなあ」と思うことで、もう彼女がいなくてもやっていける自分になってなお、彼女の存在が自分に刻み込まれていることを確かめているのではないか。つまり、「君がいればなあ」という台詞は、彼による彼女との思い出をたとえ不要なものであっても忘れたくないという意思の表明であり、失恋によって刻まれた傷が消えることなく跡として自らに残り続けることを、彼は願っていたのである。

 

<参考文献>

永井和子『原文&現代語訳シリーズ 伊勢物語』(笠間書院、2008・8)