back number「冬と春」考察──ヒロインになれなかった人──

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 back number「冬と春」は2024年1月24日に発表された配信限定シングルである。作詞作曲者である清水依与吏がミュージックビデオの監督を務めたことでも話題になった本作は、前作「怪獣のサイズ」に続き、失恋が描かれている。しかしながら、「怪獣のサイズ」がユーモアを前面に出した怪作であったのと比べて、「冬と春」にあるのはペーソスであり、同じ失恋を描かれていながらも、受ける印象は全く対になっている。本稿ではこのペーソスについて存分に思索にふけ、しんみりしていきたいと思う。

私を探していたのに

途中でその子を見つけたから

そんな馬鹿みたいな終わりに

涙を流す価値は無いわ

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作の失恋はback numberがこれまで描いてきたような失恋の状況と若干異なっている。相手と交際することなく失恋の憂き目にあう場合、過去作品では「怪獣のサイズ」や「幸せ」、「パレード」のように、語り手は相手を追う恋に終始し、決して追われることがない。しかしながら、「冬と春」の恋は、語り手が自らの失恋を振り返り、初っ端から「涙を流す価値は無い」と突き放していることが特徴的だが、彼女の恋は追う側ではなく追われる側という立ち位置から始まったものである。本作の登場人物は三名おり、語り手を追う男、追われる語り手、そして間に入ってきた一人の女である。語り手は、言ってしまえば男の片想いによって、はからずも三角関係へ押し込まれてしまった。それどころか、男が他の女と付き合いだしたことで身に覚えのない「負けヒロイン」の役を押し付けられるのだから、これはとばっちりもいいところである。

幕は降りて

長い拍手も終わって

なのに私はなんで

まだ見つめているの

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手は自らの恋を舞台劇となぞらえて考えている。彼女が参加していた三角関係の物語は、男が別の女を恋人にしたことで終幕した。幕がおりれば演者たちもまた舞台から去っていく。しかし、語り手だけは誰もいなくなった舞台の上に取り残されている。引用した描写では、語り手のいる位置が演者の立つ場所か、あるいは観客席なのかを断定できない。それは語り手が自らの立場を見失い、混乱状態にあることのあらわれであり、意図的にぼかして描写されたものであろう。

 語り手は混乱の中にあって、何かを「見つめている」という。その正体は言わずもがな、彼女のもとから去っていった男の面影のほかない。

嗚呼

枯れたはずの枝に積もった

雪 咲いて見えたのは

あなたも同じだとばかり

嗚呼

春がそっと雪を溶かして

今 見せてくれたのは

選ばれなかっただけの私

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手は男とみた冬の景色と、男が去ってから一人でみた春の景色を並べ、思いを馳せている。枝に積もる雪が春に移ろうにつれ溶けていく様子から出会いの喜びと別れの悲しみを表現するとは、もはやポップスというより和歌である。冬枯れの枝に雪が積もって花のように見えたのに、春になったら雪は溶け、それが見せかけの花に過ぎなかったと気付いたというのである。和泉式部あたりが詠んでいそうな和歌である。

 更に見事なのは男の恋心を気まぐれにふっては積もって固まり、そのくせ簡単に溶けて消えてしまう雪と表現したことである。本作の「冬と春」というタイトルは、男の恋が雪だという語り手の考えから言えば、冬が語り手を指し、春がもう一人の女のことを指している。冬に現れ、初めはせっせとふり積もっていたのに、春がくるとあっという間に溶けてしまったという雪(男)の変わりようを、二つの季節を並べることで強調しているのだ。

あんなに探していたのに

なぜだかあなたが持っていたから

おとぎばなしの中みたいに

お姫様か何かになれるものだと

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

面倒くさくても

最後まで演じきってよ

ガラスの靴を捨てた誰かと

汚れたままのドレスの話

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 ここからの描写は難解である。語り手は男に追われる側であっても、「あんなに探していた」というように、彼女自身も満たされない思いを抱えていた。そして、語り手を求めてきた男は、語り手が探し求めるものを持っていたのだという。おとぎ話の例えには、お姫様やガラスの靴、ドレスといった言葉が出てくる。童話「シンデレラ」を思わせるが、この場合、王子が語り手を追う男であり、語り手がシンデレラなのだろう。

 「シンデレラ」の王子は城の舞踏会で出会ったシンデレラを見初め、彼女の落とした靴を基にガラスの靴をつくり、足のサイズをたよりに彼女を探そうと試みる。結果、二人は再会を果たし、結ばれる。これが「シンデレラ」後半のあらましである。正直に申し上げると、筆者は「シンデレラ」に明るくない。持ちうる知識といえば、幼少の頃に書店内で見かけた回転式の本棚に並べられている世界名作絵本のうちの「シンデレラ」だけであり、その記憶さえセピア色で古ぼけている。けれども、大人になって再度、この物語を考えると、「シンデレラ」における奇跡とは彼女の前に妖精が現れ、魔法をかけたことだけではない。王子が靴ひとつだけを手がかりにシンデレラを探し続け、ぶれずに彼女だけを追い求めた誠実さもまた奇跡なのである。

 なぜなら、靴だけをたよりに相手を探すということは、王子が自己判断によって相手を選ぶことができないことに他ならない。もし、王子が靴ではなく、面談によってシンデレラを探したとすれば、全ては彼の独断によって決めることができる。しかし、王子はそうしなかった。彼は結果を思うままにできる権力を捨ててでも、あの夜に出会ったシンデレラを見つけたかった。そして、たったひとつだけ残された靴を履けることだけを条件にすることで、運命へ賽を投げたのである。ここまで誠実であり続ける男の存在は、天然記念物など比べるまでもなく希少である。

 語り手が探していたもの、そして男が持っているように思われたもの。それは王子のような誠実さであったのではないだろうか。「最後まで演じきってよ」とは、男の誠実さが見せかけであったことを罵しりながらも後ろ髪を引かれる語り手の言葉であり、「ガラスの靴を捨てた誰か」、「汚れたままのドレス」とは、シンデレラを諦めた王子と王子に見つけてもらえなかったシンデレラのことである。すなわち、語り手はシンデレラのように男の求めに応じる準備ができていたのに、男の方は語り手を諦めてしまっており、二人は結ばれなかった。「シンデレラ」は片方だけの奇跡では成り立たないのである。

嗚呼

冬がずっと雪を降らせて

白く 隠していたのは

あなたとの未来だとばかり

嗚呼

春がそっと雪を溶かして

今 見せてくれたのは

知りたくなかったこの気持ちの名前

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 二番目のサビに入るとタイトル「冬と春」は、予想と結果というシンプルな意味に変化する。一番目のサビの「枯れたはずの枝」とは誠実さを求める語り手自身を指しており、いわば彼女は冬という季節と一体化している状態であった。しかし、二番の語り手は、一番と同じ景色をみていながらも、そこに自己を投影していない。彼女は過去の自分を俯瞰し、男の隣で二人が結ばれる未来を期待していたこと、そして紛れもなく男に恋していたことを認める。

似合いもしないジャケット着て

酔うと口悪いよねあいつ

「でも私そこも好きなんです」

だって

いい子なのね

でもねあのね

その程度の覚悟なら

私にだって

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

冬のメタファーから脱して現実を直視し始めた語り手は、具体的な体験を思い起こしている。ここに描かれているのは紛れもない修羅場である。語り手は女に対し男への悪口を言う。これは穿った見方だが、このように自分が恋している相手を第三者に対し、あえて悪く言うことは、第三者に相手への悪い印象と、自分への「相手の身内感」とでもいうべき印象を抱かせ、我こそはあの人の理解者であるとして退けようとする魂胆から生じる行動だと思われる。いや、これは語り手が自身の気持ちに素直になれない性格だからだ、ということもできる。むしろその方がよろしい。しかし、いずれにせよ、そのような遠回しの策略は大胆な直球勝負をしかけてきた者の前では無力である。

 「でも私そこも好きなんです」。これは、語り手が言わなければならなかった言葉だったはずで、女から先に言われてしまったのは語り手にとって致命的な失態であったに違いない。この後、「でもねあのね」からの語り手による釈明は既に手遅れであるだけに、口惜しさが滲んでいる。

嗚呼

私じゃなくてもいいなら

私もあなたじゃなくていい

抱きしめて言う台詞じゃないね

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手は再び、失恋の悲しみを突き放そうと試みている。しかし、「抱きしめて言う台詞じゃないね」と語り手が言う通り、そこには片想いの非対称からくる無理が生じている。彼女が男を選ぼうと選ぶまいと、男は既に彼女ではない女を選んでいるためである。語り手は自分を求めてきた男に恋をしていたことを自覚し、その上で男に去られてしまった以上、かつてのような追われる側の台詞を言うことはできない。彼女は選ばれなかったヒロイン、すなわち引き立て役の助演女優として、舞台から去るほかないのである。

嗚呼

枯れたはずの枝に積もった

雪 咲いて見えたのは

あなたも同じだとばかり

嗚呼

春がそっと雪を溶かして

今 見せてくれたのは

選ばれなかっただけの私

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

ひとり泣いているだけの

あなたがよかっただけの私

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

本作は結びになって、ようやく現在の語り手の姿が描写される。そして、これまで気丈に失恋を語ってきた彼女は、一人で泣いていたというのだ。冒頭の「涙を流す価値は無いわ」という台詞は、失恋を客観的に顧みるようで、その実「知りたくなかったこの気持ち」のために涙を流す自分自身を諫める言葉だったのである。結びではついにそうした本音が吐露された。このことから、「冬と春」の語りは展開が進むにつれ、語り手が遠回しの表現から徐々に本音を隠せなくなっていく過程が描かれていたことがよく分かる。傑作である。

 以上、「冬と春」について考察してきた。最後に、ミュージックビデオについて述べておきたい。本作のミュージックビデオは、本編と絵コンテver.の二つが公開されている。本作のミュージックビデオを監督したのが歌仙・清水依与吏であることは既に述べたが、絵コンテver.ではその名の通り清水の手がけた絵コンテをみることができる。本編は、語り手とみわれる女性が部屋から出て、上の空な面持ちで町を歩き、本稿で述べてきた追う男とみられる男性のもとへ向かうという筋書きである。それ自体は歌詞世界を忠実に再現したものだが、絵コンテver.と並べてみると、2分40秒辺りに、「彼にさわってもらうはずだった場所をドアップ」との記載があり、語り手の失望のほどが垣間見える。また、本編の概要欄に、『「じゃあこの人半分ずつにしましょう」ってわけにはいかないからね。』との味わい深いコメントがされており、やはり見逃すことはできない映像となっている。

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 これはネタバレだが、ミュージックビデオの最後では、語り手が男のもとへとたどりつき、彼女は仲間と話している男の手をとって引き寄せると顔を近づけたところで、突如として画面が暗転し、次には清々しい表情になった語り手が再び歩き始めるという展開になっている。暗転した間の出来事については絵コンテの内容からしておそらくキスをしたのだろうが、個人的には概要欄の「じゃあこの人半分ずつにしましょう」との言葉が実行され、語り手が男を真っ二つに引き裂いたという説を推したいと思っている。