back number「思い出せなくなるその日まで」考察──待つことをやめる日──

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 back number「思い出せなくなるその日まで」は、2011年に発表されたシングルアルバム『思い出せなくなるその日まで』、メジャーアルバム『スーパースター』に収録された楽曲である。ベストアルバムにも収録され、メジャー初期の傑作として名高い本作は、冬を舞台とした失恋ソングである。語り手は女性であり、『スーパースター』の中では、「幸せ」も同じく女性の語り手で失恋ソングだが、両者は置かれた状況において異なっている。「幸せ」は片想いの挫折と、その去り際の心中を描いているが、「思い出せなくなるその日まで」は、両想いの破綻と、その後の日常を過ごす心中を描いているのである。テーマで分類すれば、とりわけインディーズ時代によく描かれ、メジャーデビュー後にも「繋いだ手から」、「君がドアを閉めた後」などに引き継がれてきた失恋の後日談の系統に該当するだろう。本稿では、語り手の女性の心情の変遷に注目して、内容をみていく。

 本稿は「思い出せなくなるその日まで」を失恋ソングとして述べていくものだが、そもそも本作が失恋を描いたものなのか、という問題がある。歌いだしに「世界で1番大事な人」とあって、すぐにそれが恋人だと断定するのは早計に過ぎるからである。それは家族かもしれないし、友人であるかもしれない。あるいは人ですらないかもしれない。この問題はMr.Childrenの「しるし」(2006)を例にすると分かりやすい。「しるし」の内容は本作と同じく、大切な人との別れを描いた作品と読めるが、「しるし」における大切な人とは人ではなく、リスザルである。「しるし」は桜井和寿のペット「モンちゃん」との死別から生まれた作品なのである。別れに伴う心の痛みは、対象が恋人であろうが親友であろうが。ペットであろうがモノであろうが同じであり、そこに優劣はない。これらはすべて、今まで当たり前のようにそばにいた存在がいなくなったために起こる苦しみ、不在の苦しみなのだ。

世界で1番大事な人が

いなくなっても日々は続いてく

思い出せなくなるその日まで

何をして何を見て

息をしていよう

(思い出せなくなるその日まで/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

本作の語り手もまた、不在の苦しみを抱えながら生きている。「思い出せなくなるその日」までの日々に意味を見出せず、「何をして何を見て」、「息をしていよう」と、ただ時間が過ぎるのを辛抱している。語り手が「日々は続いていく」ことを憂いている所以は、「世界で1番大事な人」を失ったためというより、かけがけのない存在を失ってなお続いていく日々の空しさにあるのだろう。誰かとの離別とは、自分がどれほど愛しく、大切に想っていたとしても、それは自分自身と決して同一にはならない。あくまで別々の存在だということを思い知らされる出来事なのである。

ひらひら輝くこの雪も季節も

せめてあなたがそばにいれば

今ではただ冷たくて

邪魔くさいだけね

寒いねって言ったら

寒いねって聞こえる

あれは幸せだったのね

(思い出せなくなるその日まで/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「思い出せなくなるその日まで」の舞台は冬である。語り手は去年と違う冬を過ごしている。外に出れば冬らしく雪が「ひらひら輝く」ように美しくふっているけれども、語り手の憂鬱は癒されない。むしろ、雪が美しく見えれば見えるほど、その感動を分かち合いたい「あなた」の不在を自覚して、憂鬱を深めるばかりである。語り手は雪の美しい様を自分だけで眺めていることに価値を感じていない。美しいものを見た時に起こる感動は、美しいものそれ自体ではなく、その感動を共に喜んでくれる人がいてこそ起こるものなのかもしれない。その人を失った語り手にとって、雪は美しくとも「ただ冷たくて」、「邪魔くさいだけ」なのである。しかし、語り手は憂鬱の中で、矛盾めいてはいるが幸せを見出している。それは「寒いねって言ったら」、「寒いねって聞こえる」ことだという。寒いというのは、冬の醍醐味ではあるけれども、多くの人にとって寒さは苦痛である。しかし、語り手の幸せはその寒さを「寒いね」と言い合えることにこそあった。こうした幸せの価値観は、後年、同じく冬を舞台にした名曲「ヒロイン」(2015)でも描かれている。

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雪が綺麗と笑うのは君がいい

でも寒いねって嬉しそうなのも

転びそうになって掴んだ手のその先で

ありがとうって楽しそうなのも

それも君がいい

(ヒロイン/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「思い出せなくなるその日まで」と「ヒロイン」は季節や描写に共通点があるものの、両者から受ける印象が全く異なる。前者からは「思い出せなくなるその日」と言いながらも、そんな日は本当に訪れるのかという不安感がある。「ヒロイン」にも同じく不安感はあるのだが、それは語り手の恋する相手との不安定な関係への不安感を追体験させられるために起こるもので、期待をはらんだ不安である。「思い出せなくなるその日まで」には、この期待がない。しかし、既に述べたように、幸せの価値観においては一致しているのである。「ヒロイン」の語り手も、綺麗な雪を見たいというより、綺麗な雪に喜ぶ「君」が見たいのであり、その隣にいることが幸せなのである。しかし、その「君」を失ったら? というストーリーが「思い出せなくなるその日まで」に描かれている。その点から言って、この二作品は地続きである。

たとえばあなたといた日々を

記憶のすべてを消し去る事ができたとして

もうそれは私ではないと思う

幸せひとつを

分け合っていたのだから

(思い出せなくなるその日まで/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 不在の苦しみの最中にいても、語り手の中に後悔はない。「あなたといた日々」の「記憶のすべてを消し去る」ことは、今までの幸せな記憶を手放すことであり、「もうそれは私ではない」と言い切っている。この描写からは、語り手がこれまでいかに幸せな日々を過ごしてきたかをよく表すと共に、語り手のいう幸せの本質は、日々の喜びや、たとえ悲しみであったとしても、それを誰かと分け合うことにあるのだと推察できる。

私の半分はあなたで

そしてあなたの半分は

私でできていたのね

それならこんなに痛いのも

涙が出るのも

仕方がない事だね

(思い出せなくなるその日まで/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

失って初めて気づく大切さという言葉は失恋や死別といった離別に関する出来事においてもはや標語のようなものであるが、多分に漏れず本作もそうである。語り手の苦しみには、前述したような孤独感、どんなに大切な人でも他人は自分とは違うという現実を突きつけられることにあるのだろう。しかし、それでも語り手は「私の半分はあなた」、「あなたの半分は」、「私でできていた」のだと言っている。同じでなくても、半身のような存在だったというのである。それは語り手の強がりではなく、「こんなに痛い」という実感から生み出された確信である。ここで言われている痛みは、形として存在しない心の痛みである。しかし、実際に幻肢痛という現象が起こるように、人は既に切り離されて存在しない身体の一部を痛みとして感じとることができる。痛みという感覚が、かつて自分自身の中にあった繋がりが断ち切れることで起こるものだとすれば、痛みそれ自体が繋がりを証明するものだということもできる。つまり、痛みを感じることで、語り手は自分の中に「あなた」がいたと信じていられる。そのためなら、どんな心の痛みさえ「仕方がない事」だというのである。

あなたの好きだった冬の上で

いつかした喧嘩を思い出してる

春になればまたきっと

花は咲くんだけど

もう何も何も

出来ないままで

誰も誰も

悲しいままで

(思い出せなくなるその日まで/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 大切な誰かの不在を耐え忍んでいる語り手は、いわば待機の状態にある。その誰かが帰ってくるのをじっと待っている。待っているからには、語り手は何もできない。「あなたの好きだった冬の上」とは、刻々と進み続ける時間の中にいながらも、どこか地に足のつかないでいる語り手の心境を表したものと読める。語り手は「あなた」を待っている。その退屈しのぎに使う思い出が、もはや「いつかした喧嘩」のような、とても良い思い出ではないものしか残っていないまでに待ち侘びている。「あなた」を待っている語り手にとって、春の訪れは何の期待も抱けないものである。たとえどのような花が咲いても、誰と出会うことがあっても、語り手が待っているのは変わらずただひとつであって、どんな存在も語り手のそばを通り抜けていく。それほどまでに、「あなた」の不在は語り手にとって異常な事態で、何よりもまず解決されなければならない問題なのである。

 たとえば、恋する人と交わしていたメッセージの返事が突然バタンと来なくなってしまった時、いつになったら返してくれるのだろうかと気になって、何も手につかなくなってしまうことはないだろうか。そんな心境こそが不在の苦しみである。このような状態にある人間は、実際を問わず、返事を待っている誰かから動くなと命令されているようなものである。その点から言って、本作で語られる「思い出せなくなるその日」とは、誰かが不在であることが非常から日常へと変わり、待つことをやめる日なのである。待つことをやめる時、ようやく地に足がついて、正常な時の流れに乗って歩み始めることになるのだろうか。

たとえばあなたといた日々を

記憶のすべてを消し去る事ができたとして

もうそれは私ではないと思う

悲しみひとつも

分け合っていたのだから

(思い出せなくなるその日まで/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

私の半分はあなたで

そしてあなたの半分は

私でできていたのね

それならこんなに痛いのも

涙が出るのも

きっと私だけじゃないね

(思い出せなくなるその日まで/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

終盤において、語り手は「悲しみひとつも」、「分け合っていた」と、過去の幸せから現在の悲しみを直視するように変わっていく。おそらく幸せな思い出だけではなく、喧嘩をした思い出を回想するうちに見つけた考えなのだろう。これまで語り手の悲しみは、本人だけに与えられた痛みであり、その痛みに失われた「あなた」の存在を見出していた。しかし、その営みはどこまでも孤独であり、語り手を現実から引き離してもいたはずである。なぜなら実際そこにいる語り手は、かつて「あなた」のいた思い出を掘り起こして、いつ来るか、また本当に来るかも分からない「あなた」が帰ってくるまでの時間稼ぎをしているに過ぎなかったのだから。悲しい、という表現を語り手が自分自身のみに向けるのは、終盤になって初めての描写である。その前段に「悲しいままで」という描写があるが、付け足されたように「誰も誰も」と直前にあって、語り手を含むとしても不特定多数の人物を指している。この辺りの微妙な相違には、語り手が自分自身の悲しみを直視したくないという意志があるように思われる。

 おそらく悲しみというのは、諦観に近いニュアンスをもつのだろう。すなわち、失ったものが二度と帰ってこないと自覚することで起こる感情が悲しみなのである。語り手が感じていたのが痛みだけだったのは、その本心に再生への期待があったからである。そして、再生への期待が残り続けるからには、語り手は思い出から出ることができない。語り手は思い出の中で待ち続けるのをやめて現実へと立ち返り、自分の悲しみを直視し始めるようになったのではないか。「涙が出るのも」、「きっと私だけじゃないね」と何もかもを分かち合った「あなた」の存在を、後ろ盾にしながら。

 

back number「赤い花火」考察──魔女と魔性の末路──

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 back number「赤い花火」は2023年に発表されたアルバム『ユーモア』に収録された楽曲である。本作では二人の男女が花火を眺める光景が描かれている。恋人同士である二人は、今しがた破局したという状況であり、別れを告げられた女性が語り手である。本稿では、語り手が用いる「魔法」という言葉に注目し、back numberの過去作で登場する「魔女」の存在を並べながら、内容について考察していく。

7時を回る前に

フラれておいてよかったわ

最後に私と見る花火は余計に綺麗でしょ

(赤い花火/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 二人の男女が並んで花火を見上げている姿を見たら、誰もが彼らの仲が睦まじいもので、幸せな時間を過ごしているのだと思うに違いない。しかし、「赤い花火」の二人はそうではない。「7時を回る前に」とは、花火大会が始まる前という意味であろう。夜の7時頃に打ち上げ開始を迎える花火大会は多い。語り手は花火が打ちあがる前に男に振られたことを喜んでいる。さらには、「最後に私と見る花火は余計に綺麗でしょ」とまで言う。これは男側からすれば実際にそうで、交際相手に別れを告げるという行為は、皮肉にも恋心の告白に相当するまでの覚悟を要する。男は喜ばしくなくとも達成感を抱えて花火を見上げていることだろう。そんな思いも汲みながら、語り手は「余計に綺麗でしょ」と言っている。本作の語り手は振られた当事者でありながらも、どこか俯瞰的に自分の失恋を眺めている。

癖のある硬い髪に

指に頬に首筋に

もう触ってはいけないのね

(赤い花火/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

煙の跡を目で追うフリして

次の花火を待つ あなたを見てた

(赤い花火/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

しかし、語り手は自分の立場が花火の上がる前と異なっていることを自覚している。もはや恋人同士ではない二人の間には、他人同士の緊張感が隔たっている。語り手は、男の姿を見ることしかできない。ここで「煙の跡を目で追うフリして」いるのは、語り手とも男とも読めるが、本稿では両方の説をとりたい。すなわち、語り手は煙の跡を目で追うフリで男を見ており、男は煙の跡を目で追うフリで次の花火を待っているのである。まず、男についてだが、彼は花火の煙を追うことで、次の花火が上がるまでの時間稼ぎをしている。花火において、よほどのマニアでなければ煙の跡をじっくり見ることはない。語り手に別れを告げた男の居心地の悪さは推して知るべしというもので、別れたばかりの恋人と花火を眺めている状況は、少なくとも男の望んで起こった出来事ではないだろう。彼が煙を見るのは煙以外の目的による行動であり、それは他でもない語り手に目を向けるのを避けたいがためのフリなのである。しかし、語り手はそんな男の時間稼ぎを悟った上で、男をまっすぐ見つめているのだ。たとえ高飛車な語り方であっても、語り手がもつ男への恋心は真剣である。

真夏の空に浮かび上がって滲んだ

ほら見て綺麗だよなんて

言うほど苦しくなった

二度と治らない火傷みたいな痛みが

胸を焦がす魔法

あなたには強くかけたのに

誰が解いたの?

(赤い花火/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 夜空へまたひとつ花火が上がると、語り手は男に声をかける。花火が上がり、一瞬だけ辺りが綺麗に明るくなったタイミングで声をかけるのは、男に自分を見てほしいからである。「ほら見て」とは、男へこっちを見てとねだっているのかもしれない。しかし、わざわざそう言わなければいけない自分の立場がとても苦しい。語り手の横で、男はずっと「次の花火」を待っているだけなのである。そして、ここで本稿のキーワードである「魔法」が出てくる。語り手は男に魔法をかけ、それが誰かに解かれたのだという。本作のように女が男に魔法をかけて虜にするのは、2016年に発表されたシングル『ハッピーエンド』のアルバム曲として収録された「魔女と僕」に共通した内容である。「魔女と僕」は語り手が男であり、思わせぶりな女の言動に振り回される自分の愚かさへの嘆きと、それでも彼女を愛さずにはいられない心境が描かれている。ここで使われているのは「魔法」ではなく「呪文」だが、これは「進学」と「受験」のようにほぼ同じものとして、本稿では扱う。

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愛する君の為にできるのは

見て見ぬ振りくらいだろう

もう僕は知っている知っている

僕だけじゃないってこと

(魔女と僕/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「魔女と僕」と「赤い花火」にはいくつかの共通点がみられる。「僕だけじゃないってこと」は、男の恋する魔女に複数の男の影があることが伺えるが、「赤い花火」でも魔法を「あなたには強くかけたのに」との描写があり、語り手が他の男にも魔法をかけていることを暗に示している。魔女の素性を垣間見た上で「見て見ぬ振り」をする男の行動も、「煙の跡を目で追うフリ」をする「赤い花火」の語り手に通ずる。

気が合うんだね私も好きだよ あの映画

(魔女と僕/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

魔女の呪文はいくつかあるが、代表として挙げるならこの一言である。これは実用的な倒置法の例文としても使えそうなほど見事で、ここで肝なのは「あの映画」を最後に言う点である。聞き手は「気が合うんだね私も好きだよ」という言葉を「あの映画」の前に聞くことになる形となり、聞き手が相手のことが好きではないのならこの言葉に驚くことはなく、相手のことが好きであるのなら、必ずこの言葉に驚く。この時、聞き手は自分自身が映画のことではなく、目の前の人間が好きであることを自覚せざるを得ない。また、驚きの反応を隠すことは誰とて容易はないので、反応は筒抜けに相手へ伝わる。一方で、相手から自分への好意は依然として不明なままであり、ここに相手優位な関係が生まれる。聞き手からすれば、「やられた……好きだ……」と奴隷よろしく虜となるに違いない。故に、「魔女と僕」の語り手は魔女に他の男の影はあるのを承知した上で、のめり込んでいくのだ。

どこをどう探しても

あなたは他にいないのに

そんなのきっと今だけだよだって

そんなわけがないでしょ

(赤い花火/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「赤い花火」に戻る。筆者は本作と「魔女と僕」は、ファンの間で囁かれる「西藤公園」と「花束」のごとく地続きの作品であるように思われる。男は魔女の呪文に惑わされ続けた経験があるからこそ、正気になった別れ際で「そんなのきっと今だけだよ」と突っぱねることができる。この女の言葉を真に受けてはいけない、という警戒心がそうさせるのだろう。しかし、悲しいかな、この時の魔女は呪文ではなく本音を言っているのだ。本心で「あなたは他にいない」と言っているのに、男に信じてもらえない。魔女は「そんなわけがないでしょ」と男を責めている。自分から離れていく男に呆れているようで、ここには相手へ自分の想いがまっすぐに届けられない魔女の悲しみがある。滲んでいるのは花火ばかりではない。

夏を通り抜ける度に

私は綺麗になるの

お見せできなくて残念だわ

(赤い花火/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

これも呪文のひとつだが、「夏を通り抜ける度に」、「私は綺麗になるの」とは男にではなく、魔女が自分自身に唱えているように思われる。いまの魔女にとって、夏には苦い失恋が刻まれているのであり、夏を通り抜ける度、とは失恋を繰り返す度、とも言い換えられる。「お見せできなくて残念だわ」は男への捨て台詞となっているが、実際には捨てられた側である魔女が言っているため、この台詞も自分を鼓舞するためのものだと考えられる。この男は、失恋によって更に美しくなる自分を見られない不幸な男だと思うことで、彼女は魔女であり続ける。それが幸か不幸かは知る由もない。

 魔女を魔女たらしめるのは、こうした自分自身への呪文によるものかもしれない。前述した「魔女と僕」にも、

生まれながらに持った力と

生き抜く中覚えた呪文で

それを僕に使ったのは

ただの気まぐれだったの?

(魔女と僕/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

とされており、魔女は生まれながらその素質こそあれど、呪文は生き抜く中で会得していくもののようである。ならば、自分自身への呪文も生き抜くために必要であれば覚えるに違いない。二面性のある女に振り回される男の哀れさを描くのは、「魔女と僕」だけではなく、「エメラルド」(2020)が挙げられる。また、振り回される語り手が一時的なテンションに身を任せると仮定すれば、「サマーワンダーランド」(2018)もこれに当てはまるだろうから、back numberが得意とするテーマのひとつとも言える。

 ミステリアスな女の魔性は、谷崎潤一郎痴人の愛』(1924)のナオミ、もっと遡れば夏目漱石三四郎』(1908)の美穪子と長く連なってきた日本男児の伝統的な性癖である。彼女らの魅力は、この二作品を読むことでしか伝わらないので書かないが、魔性の女というのは、男を惹きつけてやまないと同時に、その背後には決まって孤独が付きまわっていることは確かなようである。それもそのはずで、彼女らは男には理解や共感ができない言動をとればこそ、男はそれを解きほぐしたいと熱中するのである。「魔女と僕」の語り手が問う「ただの気まぐれだったの?」こそが、男にとっての難問で、恋心の核なのだ。その点から「赤い花火」の魔女を考えてみれば、彼女は男の恋人になってしまった時点で、男にとって完成したパズルのような存在になったのだ。男は達成感を覚え、そこに終わりを見出して、次を目指す。完成したパズルに価値がないわけではないが、パズルという営みは完成が目的であっても本質的にはパズルに悩む時間が楽しいのである。また、それに気づくのは、パズルを完成させた後なのだ。恋愛はパズルだ、などというキザなことを述べる気はない。けれども、男の恋愛感情の高まりは女と交際した時点がピークで、以後は下がるという俗説は未だに根強く流布されている。横ばいであり続ける男もいるのではないか、と希望を込めて問いたいが、それを保証してくれる確かな筋を知らない。

笑い飛ばして また会えるのなら

それでいい それでいいの それでもう

(赤い花火/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

同じ花火が二人を照らすのに

あなたの胸の内は 赤くないのね

(赤い花火/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

男に振られてなお、魔女は男に恋心を抱き続けている。恋する相手に、自分ではない恋人がいると知っていても関係を続けるのは「助演女優症」、「助演女優症2」に共通しており、魔女の成れ果てが助演女優症患者だと推察できる。これらの作品の場合、関係においては男の方が優位で、かつて彼女らが魔女として果たしていた魔性を男が発揮して、彼女らを蹂躙する形となっている。きっと彼らは同じように、かつて魔女に振り回された経験をもつに違いない。男は魔女と交わることで魔性を得るのだろうか。

 本作は『ユーモア』のアルバム曲として収録されたものではあるが、ウィキペディアによると、

ライブでは2021年のファンクラブツアー「one room party vol.6」と2022年のアリーナツアー「SCENT OF HUMOR TOUR 2022」でともに演奏された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%82%A2_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)

とあって、ライブのみで聴けた作品だったのがアルバム発表に際して音源化されたものであることが分かる。ライブ上での本作には「雨と僕の話」(2019)と同じように、演奏前の前口上が存在する。

大丈夫 大丈夫

私はあなたとこれからもいられるわ

大丈夫 大丈夫

あなたの口から私が今思っている

最悪の言葉はでない でない

ああ でないで

ださないで 何その顔は

ああ ああ 

分かってる

(「SCENT OF HUMOR TOUR 2022 at 幕張メッセ国際展示場9・10・11ホール 2022.09.08」back number『ユーモア』初回限定版Aより ※改行、変換は筆者による)

以上、「赤い花火」について述べてきたが、ニクい。これはあまりにニクい。呪文のない魔女の本音を先に述べておいてから、「7時を回る前に」と続いていくのだ。この前口上から、魔女がいかに自分自身を呪文によって演出していたのかを図り知ることができる。男が別れの言葉を告げる時、魔女は最後まで、男との別れを信じていなかったのだ。あるいは男との別れを悟っていても、別れないでいられるようにと祈っていたのである。そんな魔女の素性を演奏前に明かすことで、「赤い花火」の切なさをより強調しているのがニクいというのである。本作からは魔女に惑わされていた男が、魔性に惑わされないように成長していく過程と、魔女が助演女優へと変わる瞬間が描かれている。男は魔女を、魔女は男を通して、「相手のことを見たいのに見せてもらえない」という魔性に依存している。そして、そうした曖昧な関係の謎が、彼、彼女を惹きつけ合わせるのに、謎を解けば、その関係が引き裂かれるという恋愛の不条理と何ら得のない不毛さを、本作は哀れみながらも、その美しさを歌っているのである。

 

back number「新しい恋人達に」考察──余白の恋── 2/2

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張りぼてに描いた虹でも

手垢にまみれたバトンでも

なにかひとつ

渡せるものが見つけられたら

少しは胸を張れるだろうか

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「新しい恋人達に」に戻る。語り手は、恋する相手の前で自信がない自分を変えるきっかけとして、「渡せるもの」を見つけることを挙げている。冒頭で語られた素敵なもの、大事なものをもらい続けている自分から、誰かに何かを与える自分へと変わろうとしている。「張りぼてに描いた虹」、「手垢にまみれたバトン」はその具体例だが、非常に抽象的な描き方をされている。なぜなら張りぼてやバトンは、それ自体を渡されたところで困るだけのものだからである。このふたつの内側で、それぞれに紐づけられたメタファーがある。

 まず、虹については「Life」(2009)、「ベルベットの詩」(2022)での描写がみられる。「Life」の虹は過去の考察で述べたので、本稿では「ベルベットの詩」を取り上げる。

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あるがままの姿で

自分のままで生きさせて

努力は実りづらいが

きっと人生は素晴らしい

(ベルベットの詩/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

泥くさい

なんて泥くさい

だからこそ綺麗な綺麗な虹を

見つける権利がある

(ベルベットの詩/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「ベルベットの詩」は自己批判と人生賛美とがせめぎ合う作品である。「あるがままの姿」でいようとすればするほどぶち当たる現実の壁に苦しみながらも「人生は素晴らしい」と言い続ける頑固さが魅力だが、その中で虹は、現実に苦しんだ先に見つけることができる景色として描かれている。自分の願いの為に悩み、苦しんだ末にこそ、新しい景色が待っている。虹はそうした希望のメタファーである。また、虹を「見つける」ものと描写する点も「新しい恋人達に」と共通しているが、虹は張りぼてに描かれたものとされている。すなわち、本物の虹ではないのだ。それもそのはずで、「新しい恋人達に」の語り手はまだ苦悩の最中にいて、自信を喪失したままでいる。彼はひとりで、または誰かと共に虹を探すことはできない。見つけることもできないと考えているだろう。しかし、恋する相手が悩み苦しんでいる時に、その先で虹が見つかるかもしれない、とは言ってやりたいのだろう。そんな無力な優しさを表したものが「張りぼてに描いた虹」である。

 バトンについては「手垢にまみれた」とされており、相当の年季が入っていることが伺える。バトンとはリレーにおいて、走者ごとに手渡していくものである。そのため、語り手のいうバトンは、手垢にまみれるほどの年季からして誰かから手渡されたものであることが分かる。これは冒頭で語られていた「素敵なもの」、「大事なもの」であり、語り手はそれらをもらったのに大人になれなかったという。つまり、語り手の中でバトンは誰かから渡されたはずなのにどこかへ失くしてしまっているのだ。故に、「見つけられたら」、「少しは胸を張れる」ものとして描かれている。このことから、語り手のもつ「大人になれなかった」という悩み、「誰にも言えないでいる」という苦しみは、バトンを次の走者に渡せないままでいる走者、あるいはバトンをどこかへ落としてしまった走者としてイメージできる。これがいかに辛い状態かは、体育祭へ参加した経験のある者なら想像に難くない。茶化すように述べているが、これは深く考えれば考えるほど精神的に追い詰められた状況である。ゴールに向け、誰かから託されたものを失くしてしまうという行為は、受けた信頼への裏切りと、自分より前の走者たちの努力を全て台無しにすることに他ならない。つまり、語り手のいう大人とはバトンを次の走者へと繋いだ人間なのである。張りぼての虹と手垢にまみれたバトンは、前者は相手のために渡すものだが、後者は相手のためだけではなく、語り手自身のために渡すものである。

閉じた絵本の

終わりのページで

これは誰の人生だ

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 終盤に向け、語り手の自己問答も勢いを増していく。「誰の人生だ」はこのあと四度も繰り返されるフレーズである。ひとつの物語を読み終わると、物語の世界に没入していた状態から抜け、現実に引き戻されることになる。その時、少しの間だけ、物語の世界と現実の世界とを比較する時間が訪れる。語り手の自問はその時間に行われたのだろう。すべてではないが、物語というのはたいてい誰かの人生が描かれたものである。作中の誰かの視点から自分の視点に移った時、自分の人生に戻ったと考えるのが自然だが、語り手は「これは誰の人生だ」と疑問を持つ。それは物語を通して自分の人生から一時的に離れた機に彼の自己嫌悪が自分の人生に戻るのを拒んだのではないか。そして、遠目からみて自分の人生を投げ出し、これは誰かの人生の一部に違いないと考えている。

真白な君の未来を

真白なまま

君が色を塗れるように

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「これは誰の人生だ」という彼の問いかけは、曲内において一瞬ではなく一塊といえる時間が割かれている。それは叶う見込みのない恋をしている彼の葛藤の表現ではなかったか。一時的な現実逃避による自己問答とはいえ、自分の人生を自分に振り向かない人の一部だと思い込むのは簡単ではない。しかし、彼はその道を選ぶ。「真白な君の未来」を「真白なまま」にするのは何もしないことのように思えるが、実は違う。2024年8月2日、公式サイトにて本作のジャケットビジュアルが公開された。それは白い絵であったが、下にある絵を白い絵の具で塗りつぶしたもののようにも見える。油絵におけるキャンバスの再利用のようである。このジャケットビジュアルこそが、語り手がしようとしたことに一致している。ジャケットのキャンバスは語り手の人生であり、自身の人生を恋する相手のものだと考えているとすれば、彼のキャンバスは誰かのキャンバスの一部だということになる。それを白く塗りつぶされたのだとすれば、その部分は余白になる。彼は相手の人生がどのような色をしているかなど知る由もないだろう。しかし、恋する人が白い雲へ指先で何かを描く姿をみた彼は、少しでも多くの色を塗れるように、自分は余白になろうとした。すなわち自らの恋を相手へ打ち明けないまま、白く透明な恋を続けようと決意したのである。

でもいつか君が誰かを

どうにか幸せにしたいと

願う日に

笑って頷けたとしたら

それでもうじゅうぶんじゃないか

と思う

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 これが本作の結びである。語り手の「君が誰かを」、「どうにか幸せにしたいと」、「願う日」という語りは、彼の恋する相手の恋人の不在を表しているように読める。恋心を打ち明けない余白の恋を生きると決めた彼は、もしその日が来ても笑って頷こうとしている。彼が頷く日は、彼が失恋する日でもある。その時、彼の作り上げた余白は本当の余白になり、新しい恋人のものになる。そうして不干渉な形で、彼の透明なバトンは引き継がれ、彼は初めて大人の役割を果たす。それは透明な恋を生きる彼へのささやかな救いでもある。「新しい恋人達に」というタイトルは彼から誰かへ、自分と同じ恋心を抱く者たちへのメッセージである。彼の恋は、まったく何の見込みもない無益なものだと言える。それを哀れだと思う者があるとしたら、筆者は本稿で扱った矢沢宰の言葉を、もうひとつだけ捧げたいと思う。

 彼女をいじめてはいけない。彼女を憎んではいけない。「強い人になって、明るい人になって。」といった彼女を安心させてやれるような、つまりそれを彼女が、もう直接知ることがなくとも、いつまでも愛しいものを愛しむ態度が欲しい。

日記より(矢沢宰『光る砂漠』沖積舎、平成七年)

以上、「新しい恋人達に」について述べてきた。最後に、本稿の冒頭で引用した清水依与吏の投稿を、もう一度考えてみたい。父性というドラマから与えられたテーマを探した結果、異なるものが見つかったという結果について、清水は「がっかり」ではなく、「びっくり」したと述べている。それは恋愛の成功者たる既婚者の父性と、敗残者たる失恋者の感情に重なる部分があったことを発見した驚きだったのではないだろうか。本稿で述べてきたように、「新しい恋人達に」は失恋ソングとしても鑑賞しうる内容である。本稿に筆者のこじつけがあることは否定しないが、子をもつ父と叶わない恋を生きる男とは、もとからこじつけでも結びつけるのは困難なほど状況が異なるものだったはずであり、そんな両者を結び付けた「新しい恋人達に」は、back numberが初めて父性を描いた作品であるとともに、失恋ソングの新しい視点を生み出そうという試みが認められる挑戦作だったのである。

 

back number「新しい恋人達に」考察──余白の恋── 1/2

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 back number「新しい恋人達に」は2024年7月15日に発表された配信シングル曲である。ドラマ「海のはじまり」の主題歌である本作の作詞を担当した清水依与吏は、本作発表日の前日、X(旧:Twitter)にて、

父性という題材をもらい

 

「穏やかで深くて広いもの」

 

を探しに出たつもりが

見つけたのはびっくり

 

「なんか叫びながら

浅瀬で すっ転ぶ俺」

 

さて、

back number新曲

新しい恋人達に

 

よろしくどうぞ!

https://x.com/iyotter_bn/status/1812499806935490655

と述べている。本作のテーマは「父性」、「穏やかで深くて広いもの」である。これまで「ささえる人の歌」(2012)で母性を描いた例はあるが、父性を描いた作品は本作が初となった。けれども、本作を鑑賞するにあたり、ひとつの大きな疑問を抱かずにはいられない。それは本作のタイトルが「新しい恋人達に」だということである。親と恋人とは遠からずも近からずといった絶妙な関係性にあるが、父性を描いた作品に与えられるものとしては不自然に思われる。結婚相手ならともかく交際相手であれば、我が子の恋人は親からすれば他人でしかないからだ。また、父性というテーマから本作の内容をみても、結びの歌詞を覗くと新しい恋人を思わせる箇所はないのである。

 こうした違和感に対しては、先に引用した清水の投稿から推察をめぐらせることができる。清水は父性というドラマのテーマから作曲を始め、「穏やかで深くて広いもの」を思索したのち、「なんか叫びながら浅瀬ですっ転ぶ俺」を見つけたと述べている。大層なテーマを形にしようとしたが、結局いつも通りの自分がそこにいた、というのである。だとすると、「新しい恋人達に」もまた、父性という今までにない題材から出発してはいるが、その実は、いつも通りのお家芸、すなわち失恋ソングになっている、という風に読めないだろうか。本稿では、この清水の投稿から得た筆者の邪推をたよりに、失恋ソングとしての「新しい恋人達に」を考察していく。

光が閉じるように

会えない人がまた増えても

大人になれなかった

それを誰にも 言えないでいる

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 語り手による悩みの告白から、本作は始まっている。大人の解釈には幅があるが、大意としては精神的あるいは社会的に成熟していて、立派だと評される人物ということだろう。この描写で面白いのは、語り手が身の回りの人物との別れを大人になれるきっかけだと考えている点である。学校を卒業する時や実家を離れる時など、特に若年期では別れが成長と深く結びついている。別れは新しい環境や出会いへ繋がっていることも多い。しかし、全てがそうではなく、死別のようにただ別れるだけで終わることもある。年を経るにつれ、別れは成長と離れていくものかもしれない。恋愛や友情の破綻も時にはそうである。失恋直後などは喪失感が強く、次の出会いの可能性など、あるにしても考えられないものである。突然行き止まりに突き当たったような逼迫と憂鬱があるばかりである。この語り手もまた同じような状況で立ち止まり、途方もなく昔を振り返っているように読める。

素敵なものを 大事なものを

抱えきれないくらいに

もらったのに

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 語り手が別れを成長と結びつけて考える理由は、人との出会いによって「素敵なもの」、「大事なもの」をもらったという実感からきている。これは「僕が今できることを」(2012)にも似たような言及がみられる。

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僕らは優しい人に支えられて

いつの間にやら誰かの分まで

生きなきゃいけない気がするけど

涙も汗も一人分しか流せない

だから自分の思うように

僕が今できることを

(僕が今できることを/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

誰かと別れて生きることは、語り手にとってはその人からもらった「素敵なもの」、「大事なもの」を引き継いで生きることなのである。けれども、そうした生き方ができていないと感じている語り手にとって、別れはただ目の前にあったはずの光がひとつ消えるだけのことである。「僕が今できることを」で語られているように、「涙も汗も一人分しか流せない」から、語り手の望む生き方はそもそも無理なのだ。

指先で雲をなぞって

僕にはもう見えないものを

描く君に

かける言葉があるとしても

僕にはとても探せないだろう

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 喪失感と無力感を抱きながら、語り手は今にも会えなくなろうとしている誰かの横にいる。それが恋人かどうかは不明だが、語り手は指先で空に何かを描く誰かの横で、自分は何もしてやれないと打ちひしがれている。「僕にはもう見えないもの」という表現は、それは昔の語り手には見えていたものだということを同時に示している。これも、語り手が別れによって失った光の影響である。光とは誰かの助けや、ひとりでは得られない安心や自信である。すると、語り手の隣にいるのは、破局前の恋人というより想い人であり、語り手が片想いをしていて、その破綻を予感している状況なのではないか。その予感がどういった経緯でもたらされたものかは知る由もないが、交際しているにしてはあまりに関係が薄いと言わざるを得ないほどに、本作には語り手以外の人物にまつわる言及がない。

頼んだ覚えは無くても

守られてきた事は知ってる

自分じゃできやしないけど

君には優しくあれと願い 祈る

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

似合ってなんかいなくて

なにもかも足りないのに

投げ出し方も分かんなくて

ここにいる

(新しい恋人達に/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

自分の恋が実らないと知っていても、語り手は彼女に「優しくあれ」と自分に求めている。しかし、それも「願い」、「祈る」であり、必ずしも成し遂げられるとは思っていない。なぜなら、彼女にとって自分は「似合ってなんかいなくて」、「なにもかも足りない」存在でしかなく、自分はただ恋心を投げ出せないから彼女の近くにいるだけなのかもしれないからだ。なぜ、こうまで語り手は無力感に苛まれているのだろう。いったい彼に何があったというのか。繰り返すが、作中からその経緯は分からない。だが、似たような状況にある人間から、その心境を探ることはできるかもしれない。

 矢沢宰という詩人がいる。文学史に載るような大人物ではないが、死後に作品が発表され、夭折の詩人として評価された青年作家である。特にほとんどの生涯を過ごした新潟県見附市では「矢沢宰賞」と題された詩の全国コンクールが毎年開かれるなど、長く愛されてきた。さて、矢沢がその死後に評価を集めた理由は、病に侵され続けた苦悩の生涯によるものが大きい。矢沢は8歳で腎結核を発症して片方の腎臓を失ったのち、回復、再発を繰り返しながら21歳の若さでこの世を去った。結核と闘い続けた人生だったのである。矢沢は病床で詩を作り続け、『それでも』、『詩の散歩』というふたつの自作詩集を編んだ。それが有志によって刊行され、地元の外までその名が知られるようになったのである。本稿では、この矢沢宰の詩から、失恋の作品を参考にしていきたい。矢沢は入院中、「K子」(「Jさん」とも呼ばれている)という女性に恋をしていた。矢沢は想いを打ち明け、K子と彼は結ばれる。しかし、それからひと月も経たないうち、彼はK子から別れを告げられてしまう。K子は病院を出て、ゆくゆくは地元をも出たいという夢をもっていたのである。彼女の夢に、とうてい付き添えない身の上である矢沢は失恋にあたり、自らの病を恨まずにはいられなかった。

 結局、私がいけないのだ。私は人に愛される資格がないのだ。お前は草の上にうつぶして、「どうして病気なんだ!」と絶叫した。私は恐ろしかった。私はどうしたらいいのだ。

日記より(矢沢宰『光る砂漠』沖積舎、平成七年)

 筆者は「新しい恋人達に」の語り手が抱える無力感に、この矢沢の無念が重なるように思えてならない。矢沢は詩の中で次のように述べている。

あなたは幸せになりたい 私は幸せになりたい

それは自然のことだ あたりまえのことだ

私はあなたを幸せにしてやりたい。

だから私を愛してはならない

「私はいつも不安だった」(矢沢宰『光る砂漠』沖積舎、平成七年)

彼女の幸せを思うのなら、病を抱えた自分は彼女から愛されてはならない。矢沢は日記の中で、たびたび人を愛し、愛されたいという欲求を綴っている。病に苦しみ、死に怯える身の上であったからこそ、自分に寄り添ってくれる存在を強く求めたのだろう。しかし、矢沢は人を愛するために、愛されるためには、自身の身体は不適格だと考えていた。そのために人から愛されることを自ら拒む。矢沢は別れを告げられたあと、最期までK子への想いを断ち切れてなかった。その上で、「私を愛してはならない」と述べている。本当は愛されたくてたまらなかったはずなのに、そう詩に綴ったのは、「新しい恋人達に」で語られているような、「君には優しくあれ」という祈りであり、願いであっただろう。恋している相手のためにできることが、自分が相手のもとから去ることしかないと悟った者は、祈りや願いといった他力に頼る形でしか相手と関わることができないのである。

back number「あとのうた」考察──悲しみの効用──

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 back number「あとのうた」は2010年に発表されたアルバム『あとのまつり』に収録された楽曲である。『あとのまつり』は、ことわざで物事の取り返しがつかなくなった状態ないし手遅れを意味する「後の祭り」に則ったタイトルである。本作のタイトルにも「あとの」が付けられており、その内容にはまさしく手遅れとなった恋に苦しむ男の姿が描かれている。

君の家までの道を決して通らないように

君とよく行った店を見ないように

君の好きだったあの歌に耳をふさいで

君を好きだった自分に蓋をして

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

思い出さないように細心の注意を払って

疲れて眠って目が覚めて 君に会いたくなる

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

念仏のようなつぶやきの羅列から、本作は幕をあける。失恋した語り手は自らの行動に掟を設けて生活している。彼女の家路を通るべからず、行き慣れた店を見るべからず、彼女の好きな歌を聴くべからず。日光の三猿も驚く三段構えである。その目的は「君を好きだった自分に蓋」をするためだという。ちなみに三猿の見ざる聞かざる言わざるは他人の失敗や悪口に接した際にとるべき行動を意味することわざであるが、本作の行動は自分の失敗に終わってしまった恋に対してとられている。この掟に沿って生活した結果、彼は精神的に疲弊し、眠りにつき、油断した寝起きの頭に恋人の姿がよぎって、会いたくてたまらなくなる。それは彼の掟に効果がないことと、本心ではまったく正反対の行動を望んでいることを示している。

僕は君を大切にしていたんだ 本当だって

信じられなかった君のせいだって

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 心の蓋が外れると、彼の本音が溢れ出す。「僕は君を大切にしていた」、「信じられなかった君のせいだ」と嘆いていることから、彼の失恋の原因は『スーパースター』収録の「チェックのワンピース」と同じように恋人から彼への不信感によるものだったと考えられる。不信感とは具体的に何ぞや、そもそも大切にしていたとは何ぞやという問いへの答えは作中では示されない。けれども失恋まもない人間の心情において、理性より感情が先行するのは当然であり、かえってリアリティに富んだ語りだといえる。これは余談だが、個人的に「あとのうた」のベストテイクは2015年の「urban live tour 2015@幕張メッセイベントホール」(アルバム『シャンデリア』初回盤Aの付録DVDに収録)である。ライブ版は疾走感ある演奏で、暗い歌詞でありながら爽やかなメロディとなっているのが面白い。また、ライブ版では引用したサビの部分を歌唱した後にボーカルの清水依与吏がファンに向けて「ありがとう」と叫ぶのだが、見ての通りサビは「信じられなかった君のせいだって」と恋人を責める歌詞なのである。にもかかわらず、清水依与吏が渾身の「ありがとう!!!!!」を叫ぶので、筆者は思わずモニターの前で吹き出してしまった。必見のライブ映像である。

君に借りたものはまだ返せずにしまったままで

君にもらった服も捨てられないままで

君の口癖が移ったまま抜けてくれなくて

どんなふうに嘆いたって 結局は君の事ばっかだなあ

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 失恋後、彼は恋人に借りたもの、もらった服を部屋に置いたままにしており、恋人の口癖を真似している彼が「君を好きだった自分に蓋をして」いたのは、恋をしていた自分自身を思い出したくない。もはや、自分が恋していたという過去すら無かったことにしたいという欲求からくるものであり、そのための掟だったわけである。掟に従ってさえいれば、自分は恋人のことを忘れ、昔に戻ったように生きていけると思っていた。しかし、家に帰れば恋人の残したものがあり、それを捨てられない自分をもそこに見つけてしまう。目覚めれば無性に会いたくなる。すると、否が応でも自分の恋心に気づかされる。

そうさ何十年も同じ気持ちではいられないのなら

今すぐこの気持ちも消えてくれていいのに

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

掟の不毛さを知った後の語り手は、自分の本音を隠すことなく吐露している。「何十年も同じ気持ちではいられない」という言葉は、今の辛い気持ちを時間が解決してくれるという諦観に似た希望と、好き合う仲だった恋人と自分の気持ちが変わってしまったことへの皮肉めいた絶望からきている。特に後者は語り手自身が失恋の最中にいるだけあって重みが違う。その苦から少しでも早く自由になりたい彼は、「今すぐこの気持ちも消えてくれていいのに」とボヤいている。忘却曲線クソくらえといった具合である。掟に従ってみても、素直になっても語り手の苦悩は終わることはない。それは彼が自分自身の変化を認めたくないという意志からきている。

 独りで暮らす生活の中で恋人ができると、それからの日々は一変する。それは休日の過ごし方だけではなく、部屋や服装、口癖や価値観にいたるまで変わる。恋人から受けた影響がそうさせる。やがて時を経て不幸にも恋人が去ると、再び独りで暮らすことになる。しかし、その時、鏡に映る自分の姿は、昔とはまるで違っている。独りで暮らす生活に戻ったとしても、そこにいる自分は恋人ができる前の自分に戻ってはいないのである。たとえ思い出の品を捨てても連絡先を消そうとも、独りでいる生活の中で、もしかしたら恋人と二人でいたかもしれない生活の風景を想像する瞬間が必ず訪れる。その時、自分は寸前に在りえた幸せを逃した人生の落伍者なのではないかと不安を抱くのである。もちろん、そんな動揺を起こしたところでまさに後の祭りでしかない。さっさと次の恋へと漕ぎ出さねばならない。けれども、それは机上からの物言い、所詮は乾いた理屈であって、失恋者はそれが分かっていたとしても悲しみに暮れるほかなく、涙が枕を濡らすのだから仕方がない。こうした失恋者の心境は『あとのまつり』の次に発表されたメジャーアルバム『スーパースター』の「思い出せなくなるその日まで」にて引き続き描かれることになる。

僕は少し強くなって生きてるんだ 本当だって

君がいなくたって大丈夫なんだ

それに今君を考えているのだって

引きずっていれば削れてなくなるって計算の上さ

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「あとのうた」の語り手は、自分に訪れた変化を「少し強くなって」いるのだと主張する。その主張に根拠はない。「本当だって」と付け加えてあるのは、それが嘘かもしれないと疑う自意識の表れである。「本当だって」は恋人への言葉として描かれてはいるが、実際の恋人は既に彼の前から去っているので彼の自意識における恋人への言葉と解釈すべきである。それにしても、強がりを言う人間の姿は切ない。強がりとは、彼が自身の強さを主張すればするだけ彼の弱さが際立つようにできているからだ。彼は失恋してもなお続く恋人からの影響に動揺し、それを強くなったと思い込んでいるが自信がない。引用部分はあたかも受け答えのような会話文の体で描かれており、彼は聞かれてもいないのに「今君を考えている」と自白してしまっている。要するに余裕がないのである。人は余裕がない時ほど簡単な答えにしがみつきたいものであり、その正誤に問わず、答えを得たこと自体によって安心するのだ。

ああこんなにも1日は長いのか

ああ僕はただ揺るがないこの悲しみを 君に

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

不確かな自信は長続きしないものである。彼は「少し強くなって」いると思いながらも一日を長く感じている。それは彼が充実した一日を過ごしているからそう感じるのではない。恋人といられない一人きりの日常が退屈で仕方ないのである。ぽっかりと空いた時間の中で、彼は他人を介さずに自分自身を楽しませることができない。失恋を「揺るがないこの悲しみ」というように確固として抱き続けているのも、悲しみが今や恋人との唯一の繋がりとなっており、それを手放して孤独になるのを避けたいからである。彼は悲しみに苦しみながらも、それを失った恋人の代わりとして手放せずにいる。

僕は君を大切にしていたんだ 本当だって

信じられなかった君のせいだって

それに君が大切にしてくれていたのだって

本当は知ってたんだ どうせならもっと

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

ちゃんと言えばよかった 君に言えばよかった

君も僕もちゃんと 想い合っているって

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「あとのうた」は、語り手の強がりと実際、いわば理想と現実を対比させて描くことで、失恋者の心境には一人で過ごす日常への不安、それを嘆くことで得られる仮初めの安心、この一見して相反する二つの感情が同居することを明らかにした作品である。そして、結びでは語り手の最後の言葉が語られている。これまで彼は、強がりを言えば言うほど己の悲しみを直視してきた。それが意識的な行動なのか無意識だったのかは不明である。しかし、結果的に彼は「君に言えばよかった」言葉を見つける。彼は後悔しているが、最後の場面で自らの失敗をはっきりと自覚した。それは「揺るがないこの悲しみ」の片付けを始めたことを示している。彼の悲しみが今まで揺るがなかったのは、悲しみによって救いを得ており、それがためにわざと手を付けずにいたからである。彼はまだ恋人の私物やプレゼントを捨てられないだろうし、口癖も消えないのだろう。けれども、失恋した自分の感情を整理することは、恋人の私物を処分することより遥かに彼の心を立ち上がらせ、前進させるに違いない。

 

back number「チェックのワンピース」考察──恋愛のアイコン──

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 back number「チェックのワンピース」は2011年のアルバム『スーパースター』に収録された楽曲である。『スーパースター』はback numberのメジャー初アルバムであり、メジャーデビュー曲の「はなびら」のほか、「スーパースターになったら」、「花束」、「思い出せなくなるその日まで」といった同バンドの代表曲が目白押しとなっている。本稿で扱う「チェックのワンピース」は、アルバムの中では7曲目に位置する。先に述べた代表曲と比べると落ち着いた曲調をもつ本作はアルバムの中盤と終盤のつなぎ役である。作品のテーマは失恋であり、恋人に去られた語り手が一人で夜の町並みを眺めながら物思いに耽るというシチュエーションが描かれている。本稿では、「チェックのワンピース」のタイトルにもあるワンピースに注目しながら、本作で語られる失恋について考察していく。

夜の街を見下ろしながら

なんとなく気付いた事は

あんなに綺麗に光ってたってさ

自分は見えないんだよな

(チェックのワンピース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

この街は色とりどりに

光と陰を連れて明日へ向かう

あの中で僕達も

光っていたのかな

(チェックのワンピース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作の語り手が見ている景色は初めから終わりまで同じ夜の街並みである。語り手がどこにいるのかという具体的な設定は不明であり、ここは聴き手によって意見が分かれることだろう。筆者の見解を言えば、語り手は高層マンションや屋上レストラン、カフェーのテラスといったシャレた場所にはまずいないだろうということである。おそらくそこは外灯も立たない雑居ビルの屋上であり、そこには手すりに肘をつき、涙と酒のせいで腫れあがった赤い目の男がいるはずである。なぜなら、失恋に落ち込む男が、先に挙げたようなドレスコード確定の店へ行くのはあまりに気合が入り過ぎている。そういう場所には元気がないとまず行けない。

 高層マンションもいけない。筆者は二階以上の家に住んだことがないのでよく知らないが、あまりに高い位置から街を見下ろすのは、夜空の星を見上げるのと変わらないのではないか。何が言いたいのかというと、光をみてセンチメンタルに浸るには、高層マンションでは綺麗すぎるし、かつ光の数が多すぎる。失恋した男が数ある光をみて考えることは「女なんて星の数ほどいるサ」ということでしかないから、高層マンションでは本作のように一人の女性についてぐちぐちと悩む失恋ソングが成り立たないのである。ほどほどの高さ、ほどほどの光の数でなければならない。

 内容をみていこう。街を見下ろす語り手は、時間が経つにつれて気づきを得たのだという。街を見下ろす、という行為は語り手が何か気づきを得ようと思って起こした行動ではないだろうから、やることがなくて仕方もなくこうしていたらたまたま気づいたことがあった、というニュアンスだろう。それは夜の街の中で光る物体、たとえば電灯や看板や水に反射する光などが該当するが、そうしたものは、自ら光っていながらもそれを自覚していないということだった。冒頭の部分だけを読むと、語り手が言っていることは全く意味不明である。しかし、先にこうした聴き手あるいは読み手に「これはどういうことだろう?」と思わせることで、back numberは我々を歌詞世界へと引き込んでいくのである。

 二つ目の引用部分に入ると、どうやら語り手が失恋したらしいことが推察できる。語り手にとって光とは幸せを表している。それは語り手が自身を陰(不幸せ)の中にいる存在として考えていることも同時に示している。語り手が失恋した自分を陰にいる存在としているのならば、失恋していない恋人たちが光にいるわけである。つまり、彼が見ているのはまさにその恋人たちである。となれば、余計に筆者は語り手のいる立ち位置は、やはり雑居ビルだと主張せざるを得ない。彼は明らかに居酒屋ひしめく繁華街のビルの屋上にいて、下のアベック各位をみている。

 彼から見る街は、「光と陰を連れて明日へ向かう」。つまり、街は、ねんごろなカップルも孤独な語り手も、どちらも置いていかずに明日を迎えさせるのだという。明日とは夜にいる語り手にとっては朝を意味している。語り手はただでさえ暗い夜の、更に陰にいる自分にさえ、明日(朝)はやってくるのだと憂鬱を感じていながらも、その憂鬱はかつて恋人がいた時には想像もつかない体験であったと気付いた。故に、彼は陰の中にあって、現在光の中にいる恋人達を見ながら、前は自分も光の中にいたのに、その幸せに気づけなかったと陰の中で考えている。

これから

チェックのワンピースを

どこかで見つける度に

あぁ君を思い出すのかな

嫌だな 嫌だな

それでも

いつかまた出会えたら

僕ならもう大丈夫だと

言えるように

君のいない明日を

光らせよう

(チェックのワンピース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「これから」という言葉から、語り手が失恋してからまだ間もないことが分かる。彼は恋人との回想に耽りながら朝を待っている。しかし、意気消沈した心が明るみに出る見込みは立っていないようだ。彼の生きている街は「光と陰を連れて明日へ向かう」。だから、彼が落ち込んでいようがどうしようが、明日はやってくる。どうせ来るなら明日は今日より明るみにいる自分でありたい、もしかしたらまた会えるかもしれないし、というのが彼の考えである。こうしたボヤきとケチなポジティブシンキングは、back numberの初期から現在にいたるまで貫かれている。

君の頼んだものの方がさ

なんでも美味しかったり

いつも君の方が正しかったし

別れも仕方ないのだろう

(チェックのワンピース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 語り手は恋人を象徴するアイコンとして、「チェックのワンピース」という服装を想起している。それが顔の特徴や声といった恋人の生身ではなかったのは、彼が恋人の顔をあまり見ていなかったことを指している、というのは邪推だろうか。しかし、それほどまでに語り手は自尊心が低い。恋人同士が必ずしも対等な関係を築いているわけではないし、築いていたから正しいのでもないが、語り手のように相手が常に正しく、自分は間違っているという想いを抱えたまま一緒にいれば、「自分は相手に釣り合わない」と落ち込みながら関係を続けていくことになる。そういう状態にあって、「相手が常に正しいのなら、その相手に選ばれた自分自身をどうして信じられないのか」という理屈による反論は、なぜだか浮かばない。

君からもらったもの

すべてを

思い出せるわけじゃないけど

大事にしていたんだよ

大事にしてたんだよ

(チェックのワンピース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

本作における破局の原因は不明だが、どうやら語り手が恋人から別れを切り出されて振られたらしいことは、この引用部分から推察をすることはできる。それは語り手が恋人から「大事にされていない」と思われていたのかもしれない、ということである。語り手の自尊心の低さは相手への尊敬を表すとともに、「自分は相手と釣り合っていない」という自己不全感から、相手の顔をまともに見ることができていなかったことを表していた。とするならば、相手にとって語り手は恋人でありながら自分を尊敬こそすれまともに見てくれない人物だった。つまりは素っ気ない人物として見えていたのである。

 尊敬とは、聞こえはいいけれども簡単に口にできない。それは形に表すのが難しいということである。思うに、人が見知らぬ他人に尽くす礼儀と、恋人に尽くす尊敬を見分けるのは簡単なようで難しい。けれども、他人と恋人は全く反対の人間関係に属している。だから、語り手が恋人のために尽くす「優しい行動」が、恋人にとって、多くの人間が他人に行う「儀礼のような親切」として受け止められてしまう場合もある。その時、恋人にとって語り手は、距離ある他人のように思われ、「自分は他人扱いされている」すなわち「自分は大事にされていない」と思われてしまう原因となったのではないか。

 自尊心が低いあまり恋人に従順でありすぎた語り手は、全てが終わった後で「大事にしていた」と反論をしている。彼は恋人から別れを切り出され、その原因が彼の態度だったと知った時、自分は恋人を大事にしていなかったのか、と恋人の言葉をそのまま飲み込んでしまったに違いない。しかし、恋人が去ってから落ち込んでいる彼は初めて恋人の間違いに気づいた。あるいは、それまでの恋人が正しくて自分が間違いだという考えを改めたのである。

 彼が「君からもらったもの」、「すべてを思い出せるわけじゃないけど」と語っているのは、自信なさげだがそうではない。自分は恋人を大事にしていた、それは根拠がなくても確かなことだという強い意志による言葉である。それは彼が今まさに恋人を失って落ち込んでいるからこそもてる意志であり、大事にしていなかったら、こんなに辛い思いをするはずがない、ということなのである。加えて、彼が「大事にしていたんだよ」、「大事にしてたんだよ」と心の内に繰り返すのも、自分の想いに間違いはなかったと自分自身に言い聞かせているためだろう。恋人に付き従うだけだった彼にとって、それは大きな変化である。

これから

チェックのワンピースを

どこかで見つける度に

あぁ君を思い出すのかな

嫌だな 嫌だな

それでも

いつかまた出会えたら

僕ならもう大丈夫だと

言えるように

君より似合う誰かを

見つけるから

(チェックのワンピース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手がチェックのワンピースを街で見つけることへ「嫌だな」と呟くのは、本作の特徴である。この下りは前半と後半で二回歌われているが、語り手の胸中はそれぞれ異なっている。前半は「君のいない明日」を迎えることへの憂鬱と重なった「嫌だな」であり、本当に嫌がっている。しかし、後半は「君より似合う誰か」を見つけにいく前向きさと重なった「嫌だな」である。語り手が自身の恋心に間違いはなかったと信じて自立したことも踏まえると、今や彼にとって明日は待ち遠しいものである。だから、ここの「嫌だな」は、仕方ないなあ、参っちまうなァ、という笑みを含んだものと考えられる。本作は前半と後半で同じ言葉が使われているが、それを言う語り手の表情は対照的なのである。

 以上、「チェックのワンピース」について述べてきた。本作は自分の想いをうまく相手に伝えられなかった語り手が失恋によって喪失した自信を「落ち込んでいる自分」を通じて取り戻すというまさに独り相撲の物語であった。結びの「君より似合う誰かを」、「見つけるから」という言葉は、彼にとってチェックのワンピースが恋愛のアイコンとして残り続けることを指している。それは未練と読めるだろうし、教訓とも読める。次の恋人に前の恋人の面影を移すのは、次の恋人にとっては迷惑千万な場合もあるかもしれない。けれども、一度でも親密になった相手を忘れることは生涯できない。まっ白な状態で次の恋へは進めないのである。それでも我々は恋をする時に、前の恋人の話をまずしない。それは言っても聞いても良い気がしないという共通理解による暗黙の了解でそうするのである。そして、そうした後ろめたい想いを隠さず、恋愛の裏面として描ける語り手は信頼できる。筆者にとってback numberはその筆頭である。

 

 

私家版『back number私研究』発刊

 本ブログを始めてから一年が経過したので、記念として今年度(?)投稿した記事をまとめて本にしてみました。発刊といっても私家版のため世に出ることはありませんが、かなりイイ気持ちです。今回は製本直送.com様に製本をお願いしました。素晴らしい出来です。ありがとうございました。

外面

内容