back number「HAPPY BIRTHDAY」は2019年2月にシングル『HAPPY BIRTHDAY』、同年3月にアルバム『MAGIC』に収録された作品である。TBS系火曜ドラマ『初めて恋をした日に読む話』の主題歌として採用された本作は、オフィシャルインタビューにて、
清水 ドラマの方からも「片思いの感じがいいですね」みたいな感想はいただいて。一体、登場人物の誰の歌なのか、自分でもよくわからないんですが、俺たちの曲史上、もっとも相手と脈のない歌なんじゃないかと思います(笑)。
https://sp.universal-music.co.jp/backnumber/happy-birthday/#myc-modal-interview
と言及されており、数多の恋愛ソングを手掛けてきた同バンド史上、最も脈無しの曲として位置づけられていることが分かる。
本稿では、「HAPPY BIRTHDAY」における片想いの描写を考察・鑑賞していく。また、清水依与吏は本作の作詞について、
制作時は、「片思い」というキーワードでつながっていれば、おのずと作品とリンクしてくると思っていたので、ストーリーは特別意識せず、楽曲の主人公の思いが濁りなく伝わるものになるよう心掛けました。
https://thetv.jp/feature/drama-academy/100/awards/interview/6/
とも語っている。そのため、本稿で述べていく本作への見解は、ドラマの内容を脇に置かせていただきながら述べていくことにする。
いつの間にやら日付は変わって
なんで年って取るんだろう
もう背は伸びないくせに
着信の音で飛び起きたけど損したな
君かと思ったのに
本作の語り手は男であり、彼は今まさに自分の誕生日を迎えたところである。子どもから大人になるにつれ、誕生日を迎える心境は変わるものである。大人になると、誕生日はどこか空しさや焦燥感を覚えるイベントへと変わっていくのだ。それは彼が言うように「もう背は伸びないくせに」、年齢だけが加えられるからである。みんなから受ける「おめでとう」という嬉しい言葉さえ、いったい何がめでたいのか分からなくなってくる。
誕生日を知らぬ間にかつ独りで迎えた彼にとっては、なおのこと寂しい時間であろう。そんな折、ふと入った着信の音を「君か」と飛び起きたのに、期待したようなものではなかったという。さしずめアプリからの義務的な祝福メッセージあたりではなかったか。このように、自分にとってだけ特別な瞬間に独りでいる時、彼は空しさに駆られ、ふっと君のことを考え始めたというわけである。
何かの手違いで
好きになってくれないかな
どうにも君のいない場所は
空気が薄くてさ
「何かの手違いで」、「好きになってくれないかな」とは、清々しいまでの他力本願である。本作の語り手は、「高嶺の花子さん」の語り手と酷似している。作詞者が同じなのだから当たり前といえばそうなのだが、「高嶺の花子さん」では、
会いたいんだ 今すぐその角から 飛び出してきてくれないか
夏の魔物に連れ去られ 僕のもとへ
生まれた星のもとが 違くたって 偶然と夏の魔法とやらの力で
僕のものに なるわけないか
とされていて、自分が彼女と結ばれるためには魔物による誘拐と偶然と夏の魔法の力が必要だというのである。手違いどころではない。この点から言って、本作の語り手は「高嶺の花子さん」ほど夢想に耽っているわけではないようだ。おそらく誕生日によって自分の年齢という避けられない現実を直視している分、冷静なのではないか。「どうにも君のいない場所は」、「空気が薄くてさ」とは、君がそばにいてくれると安心する、むしろいてくれないと苦しいとを冗談めかして言っている。この辺りの表現にはback numberらしい照れ隠しのユーモアが出ていて、筆者は大好きである。
くだらない話は思い付くのに
君を抱き締めていい理由だけが見付からない
ああそうか そうだよな
ハッピーバースデー 片想いの俺
これが本作のサビである。妄想の中でさえ彼は君に「くだらない話」ばかりしていて、「君を抱き締めていい理由」には辿りつかない。手違いを期待する彼だから、これという理由もなしに抱きしめたいから抱きしめるなどというのは、思いもよらない展開なのである。その中で「ああそうか」、「そうだよな」と何かに気づく。ここでは「片想いの俺」に「ハッピーバースデー」を告げている。このハッピーバースデーは、彼による彼自身への皮肉が含まれているが、それだけではない。「俺」の前に「片想いの」と付け加えられている。それは以前までの彼と今日の彼とが違うから付け加えられているのだ。すなわち、彼は恋をしている自分が自分の中に生まれ、片想いまで育ったことに気づいて、その恋心にハッピーバースデーと言っているのである。
愛が何かは知らないけれど
好きと言う名前の痛みになら詳しいかも
君にも教えてあげたいけれど結局
教わるのは俺だろう
誰かを好きなことと誰かを愛していることの違いを語るのは難しい。好きが深まって愛になるのかもしれないし、まったく別の感情なのかもしれない。本作の語り手は、愛はまず置き、好きという感情を精細に分解してみせている。好きという感情には痛みが含まれているというのである。正確には「好きと言う名前の痛み」であるから、彼が知っているのはあくまで痛みだけであり、そこにどうやら「好き」とラベリングされているらしい、ということでしかない。
片想いであっても嬉しさのひとつはあるものだが、それが痛みと表裏一体であることは確かである。好きな人と会えた時は嬉しいが、別れて独りになると、その嬉しさは嬉しさのままではいてくれず、後悔になり、不安になり、ひどければ絶望になる。であるならば、好きという感情は、とどのつまり痛みなのかもしれない。少なくとも彼は、そういう恋を生きてきたのだ。
彼は片想いの痛みをよく知る者として、「君にも教えてあげたい」。少しはお前もこの痛みを味わえというわけである。片想いというのは、その名の通り、片方だけが想いを寄せているだけで、相手は平然としている。こっちは心を痛めているのに、あっちはのほほんと日々を過ごしているのが、まったく憎たらしい。ならば片想いをやめればいいのだが、それは絶対にできない。片想い者の心境はこういった風に弱弱しく、支離滅裂なのである。故に、痛みを教えてやりたいなどと好戦的になったところで、どうで勝負はついている。それどころか「教わるのは俺だろう」と、新しい痛みを噛みしめるはめになる。相手は平然としている。考えれば考えるほど、片想いは割に合わない。
このまま今日が終わり明日が来れば
いつになっても縮まらないこの距離を
駆け引きにも綱引きにもならないやり取りを
もっと単純な名前で呼んであげられるよ
何ひとつ終われないけど
彼にとって今日は自分の誕生日であるとともに、自分の片想いが「もっと単純な名前」に変わる節目の一日でもある。もし、君からメッセージで「おめでとう」の五文字でも送られてきたのなら、「いつになっても縮まらないこの距離」や「駆け引きにも綱引きにもならないやり取り」を肯定できるが、何もなければただの脈無しと断定されてしまう。まさに「僕は君の事が好きだけど君は僕を別に好きじゃないみたい」というシンプルな答えが彼に突き付けられてしまうのである。さらに彼は、どんな結果になっても「何ひとつ終われないけど」と、自分で自分に呆れている。彼女からのメッセージが来ようが来まいが、彼の痛みは深くなっていく。
つまらない言葉の繰り返しで
つじつまもきっと合ってない物語の続きに
ひとりよがりの毎日に
ハッピーバースデー
君に言って欲しいだけ
「ハッピーバースデー」、「君に言って欲しいだけ」。これが彼の心からの本音である。冗談めかしてごまかしてきたが、本音はこうなのである。たった一言の「ハッピーバースデー」さえあれば、この片想いの日々が報われるから、ただそれだけの言葉が欲しいと、彼は願っている。この描写において、彼はまったくふざけていない。それだけに、この小さく絞り出したような祈りが、切なく響いている。
くだらない話は思い付くのに
君を抱き締めていい理由だけが見付からない
ああそうか そうだよな
ハッピーバースデー 片想いの俺
ハッピーバースデー 片想いの俺
結びでは「ハッピーバースデー 片想いの俺」が二度繰り返されている。君からハッピーバースデーが送られてきたのかは分からないまま、本作は終わる。本稿冒頭にて、本作はback number史上最も脈なしの曲だと述べた。確かに本作は語り手の彼自身が言っているように独りよがりで終始している。しかし、最後の「ハッピーバースデー 片想いの俺」は、同じ言葉であっても最初のサビに含まれていた皮肉が、やはりないように思われる。ここでの「片想いの俺」へのハッピーバースデーは、彼から彼自身へのエールであり、たとえ君からハッピーバースデーをもらえなくても、自分の恋心を祝い、迎えてあげたいという願いなのではないだろうか。
昨今は冷笑の流行りもあり、見込みのない恋をする者への風当たりはますます強くなってきている。そんな感があるが、私は彼のような片想い者を笑いたくない。あらゆることに効率や合理性が求められる時代の中で、見込みのない恋をすることはひどく無駄なことなのかもしれない。しかし、人を好きになるということにまで損得勘定を求めるべきではない。見込みがあるから恋をする、見込みがないから恋をしない。それは賢者の考えではなく無知蒙昧の臆病者の考えである。
「HAPPY BIRTHDAY」は、確かに作詞者と語り手自身がそう言うように脈無しの恋をする独りよがりの物語なのかもしれない。しかし、ここには見込み、脈といった他己を捨て、ただ自己の恋を肯定して生きる独りの物語が描かれている。その姿は愚者に見えても、決して臆病者ではない。たとえ見込みがなくても、その恋をしている自分まで否定することはないのである。