back number「冬と春」考察──ヒロインになれなかった人──

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 back number「冬と春」は2024年1月24日に発表された配信限定シングルである。作詞作曲者である清水依与吏がミュージックビデオの監督を務めたことでも話題になった本作は、前作「怪獣のサイズ」に続き、失恋が描かれている。しかしながら、「怪獣のサイズ」がユーモアを前面に出した怪作であったのと比べて、「冬と春」にあるのはペーソスであり、同じ失恋を描かれていながらも、受ける印象は全く対になっている。本稿ではこのペーソスについて存分に思索にふけ、しんみりしていきたいと思う。

私を探していたのに

途中でその子を見つけたから

そんな馬鹿みたいな終わりに

涙を流す価値は無いわ

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作の失恋はback numberがこれまで描いてきたような失恋の状況と若干異なっている。相手と交際することなく失恋の憂き目にあう場合、過去作品では「怪獣のサイズ」や「幸せ」、「パレード」のように、語り手は相手を追う恋に終始し、決して追われることがない。しかしながら、「冬と春」の恋は、語り手が自らの失恋を振り返り、初っ端から「涙を流す価値は無い」と突き放していることが特徴的だが、彼女の恋は追う側ではなく追われる側という立ち位置から始まったものである。本作の登場人物は三名おり、語り手を追う男、追われる語り手、そして間に入ってきた一人の女である。語り手は、言ってしまえば男の片想いによって、はからずも三角関係へ押し込まれてしまった。それどころか、男が他の女と付き合いだしたことで身に覚えのない「負けヒロイン」の役を押し付けられるのだから、これはとばっちりもいいところである。

幕は降りて

長い拍手も終わって

なのに私はなんで

まだ見つめているの

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手は自らの恋を舞台劇となぞらえて考えている。彼女が参加していた三角関係の物語は、男が別の女を恋人にしたことで終幕した。幕がおりれば演者たちもまた舞台から去っていく。しかし、語り手だけは誰もいなくなった舞台の上に取り残されている。引用した描写では、語り手のいる位置が演者の立つ場所か、あるいは観客席なのかを断定できない。それは語り手が自らの立場を見失い、混乱状態にあることのあらわれであり、意図的にぼかして描写されたものであろう。

 語り手は混乱の中にあって、何かを「見つめている」という。その正体は言わずもがな、彼女のもとから去っていった男の面影のほかない。

嗚呼

枯れたはずの枝に積もった

雪 咲いて見えたのは

あなたも同じだとばかり

嗚呼

春がそっと雪を溶かして

今 見せてくれたのは

選ばれなかっただけの私

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手は男とみた冬の景色と、男が去ってから一人でみた春の景色を並べ、思いを馳せている。枝に積もる雪が春に移ろうにつれ溶けていく様子から出会いの喜びと別れの悲しみを表現するとは、もはやポップスというより和歌である。冬枯れの枝に雪が積もって花のように見えたのに、春になったら雪は溶け、それが見せかけの花に過ぎなかったと気付いたというのである。和泉式部あたりが詠んでいそうな和歌である。

 更に見事なのは男の恋心を気まぐれにふっては積もって固まり、そのくせ簡単に溶けて消えてしまう雪と表現したことである。本作の「冬と春」というタイトルは、男の恋が雪だという語り手の考えから言えば、冬が語り手を指し、春がもう一人の女のことを指している。冬に現れ、初めはせっせとふり積もっていたのに、春がくるとあっという間に溶けてしまったという雪(男)の変わりようを、二つの季節を並べることで強調しているのだ。

あんなに探していたのに

なぜだかあなたが持っていたから

おとぎばなしの中みたいに

お姫様か何かになれるものだと

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

面倒くさくても

最後まで演じきってよ

ガラスの靴を捨てた誰かと

汚れたままのドレスの話

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 ここからの描写は難解である。語り手は男に追われる側であっても、「あんなに探していた」というように、彼女自身も満たされない思いを抱えていた。そして、語り手を求めてきた男は、語り手が探し求めるものを持っていたのだという。おとぎ話の例えには、お姫様やガラスの靴、ドレスといった言葉が出てくる。童話「シンデレラ」を思わせるが、この場合、王子が語り手を追う男であり、語り手がシンデレラなのだろう。

 「シンデレラ」の王子は城の舞踏会で出会ったシンデレラを見初め、彼女の落とした靴を基にガラスの靴をつくり、足のサイズをたよりに彼女を探そうと試みる。結果、二人は再会を果たし、結ばれる。これが「シンデレラ」後半のあらましである。正直に申し上げると、筆者は「シンデレラ」に明るくない。持ちうる知識といえば、幼少の頃に書店内で見かけた回転式の本棚に並べられている世界名作絵本のうちの「シンデレラ」だけであり、その記憶さえセピア色で古ぼけている。けれども、大人になって再度、この物語を考えると、「シンデレラ」における奇跡とは彼女の前に妖精が現れ、魔法をかけたことだけではない。王子が靴ひとつだけを手がかりにシンデレラを探し続け、ぶれずに彼女だけを追い求めた誠実さもまた奇跡なのである。

 なぜなら、靴だけをたよりに相手を探すということは、王子が自己判断によって相手を選ぶことができないことに他ならない。もし、王子が靴ではなく、面談によってシンデレラを探したとすれば、全ては彼の独断によって決めることができる。しかし、王子はそうしなかった。彼は結果を思うままにできる権力を捨ててでも、あの夜に出会ったシンデレラを見つけたかった。そして、たったひとつだけ残された靴を履けることだけを条件にすることで、運命へ賽を投げたのである。ここまで誠実であり続ける男の存在は、天然記念物など比べるまでもなく希少である。

 語り手が探していたもの、そして男が持っているように思われたもの。それは王子のような誠実さであったのではないだろうか。「最後まで演じきってよ」とは、男の誠実さが見せかけであったことを罵しりながらも後ろ髪を引かれる語り手の言葉であり、「ガラスの靴を捨てた誰か」、「汚れたままのドレス」とは、シンデレラを諦めた王子と王子に見つけてもらえなかったシンデレラのことである。すなわち、語り手はシンデレラのように男の求めに応じる準備ができていたのに、男の方は語り手を諦めてしまっており、二人は結ばれなかった。「シンデレラ」は片方だけの奇跡では成り立たないのである。

嗚呼

冬がずっと雪を降らせて

白く 隠していたのは

あなたとの未来だとばかり

嗚呼

春がそっと雪を溶かして

今 見せてくれたのは

知りたくなかったこの気持ちの名前

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 二番目のサビに入るとタイトル「冬と春」は、予想と結果というシンプルな意味に変化する。一番目のサビの「枯れたはずの枝」とは誠実さを求める語り手自身を指しており、いわば彼女は冬という季節と一体化している状態であった。しかし、二番の語り手は、一番と同じ景色をみていながらも、そこに自己を投影していない。彼女は過去の自分を俯瞰し、男の隣で二人が結ばれる未来を期待していたこと、そして紛れもなく男に恋していたことを認める。

似合いもしないジャケット着て

酔うと口悪いよねあいつ

「でも私そこも好きなんです」

だって

いい子なのね

でもねあのね

その程度の覚悟なら

私にだって

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

冬のメタファーから脱して現実を直視し始めた語り手は、具体的な体験を思い起こしている。ここに描かれているのは紛れもない修羅場である。語り手は女に対し男への悪口を言う。これは穿った見方だが、このように自分が恋している相手を第三者に対し、あえて悪く言うことは、第三者に相手への悪い印象と、自分への「相手の身内感」とでもいうべき印象を抱かせ、我こそはあの人の理解者であるとして退けようとする魂胆から生じる行動だと思われる。いや、これは語り手が自身の気持ちに素直になれない性格だからだ、ということもできる。むしろその方がよろしい。しかし、いずれにせよ、そのような遠回しの策略は大胆な直球勝負をしかけてきた者の前では無力である。

 「でも私そこも好きなんです」。これは、語り手が言わなければならなかった言葉だったはずで、女から先に言われてしまったのは語り手にとって致命的な失態であったに違いない。この後、「でもねあのね」からの語り手による釈明は既に手遅れであるだけに、口惜しさが滲んでいる。

嗚呼

私じゃなくてもいいなら

私もあなたじゃなくていい

抱きしめて言う台詞じゃないね

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手は再び、失恋の悲しみを突き放そうと試みている。しかし、「抱きしめて言う台詞じゃないね」と語り手が言う通り、そこには片想いの非対称からくる無理が生じている。彼女が男を選ぼうと選ぶまいと、男は既に彼女ではない女を選んでいるためである。語り手は自分を求めてきた男に恋をしていたことを自覚し、その上で男に去られてしまった以上、かつてのような追われる側の台詞を言うことはできない。彼女は選ばれなかったヒロイン、すなわち引き立て役の助演女優として、舞台から去るほかないのである。

嗚呼

枯れたはずの枝に積もった

雪 咲いて見えたのは

あなたも同じだとばかり

嗚呼

春がそっと雪を溶かして

今 見せてくれたのは

選ばれなかっただけの私

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

ひとり泣いているだけの

あなたがよかっただけの私

(冬と春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

本作は結びになって、ようやく現在の語り手の姿が描写される。そして、これまで気丈に失恋を語ってきた彼女は、一人で泣いていたというのだ。冒頭の「涙を流す価値は無いわ」という台詞は、失恋を客観的に顧みるようで、その実「知りたくなかったこの気持ち」のために涙を流す自分自身を諫める言葉だったのである。結びではついにそうした本音が吐露された。このことから、「冬と春」の語りは展開が進むにつれ、語り手が遠回しの表現から徐々に本音を隠せなくなっていく過程が描かれていたことがよく分かる。傑作である。

 以上、「冬と春」について考察してきた。最後に、ミュージックビデオについて述べておきたい。本作のミュージックビデオは、本編と絵コンテver.の二つが公開されている。本作のミュージックビデオを監督したのが歌仙・清水依与吏であることは既に述べたが、絵コンテver.ではその名の通り清水の手がけた絵コンテをみることができる。本編は、語り手とみわれる女性が部屋から出て、上の空な面持ちで町を歩き、本稿で述べてきた追う男とみられる男性のもとへ向かうという筋書きである。それ自体は歌詞世界を忠実に再現したものだが、絵コンテver.と並べてみると、2分40秒辺りに、「彼にさわってもらうはずだった場所をドアップ」との記載があり、語り手の失望のほどが垣間見える。また、本編の概要欄に、『「じゃあこの人半分ずつにしましょう」ってわけにはいかないからね。』との味わい深いコメントがされており、やはり見逃すことはできない映像となっている。

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 これはネタバレだが、ミュージックビデオの最後では、語り手が男のもとへとたどりつき、彼女は仲間と話している男の手をとって引き寄せると顔を近づけたところで、突如として画面が暗転し、次には清々しい表情になった語り手が再び歩き始めるという展開になっている。暗転した間の出来事については絵コンテの内容からしておそらくキスをしたのだろうが、個人的には概要欄の「じゃあこの人半分ずつにしましょう」との言葉が実行され、語り手が男を真っ二つに引き裂いたという説を推したいと思っている。

 

back number「スーパースターになったら」考察──出発のブルース──2/2

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 プライドとは自尊心や既に述べたアイデンティティと類似した概念である。これが複数存在するとはどういうことなのか。プライドとは自分だけがもつ唯一のものだからこそ守りたいものではないのか。こうした疑問を考える上で、1996年、Mr.Childrenが発表した「名もなき詩」は多くの示唆を与えてくれる。いきなりミスチルに話を移して申し訳ないが、本作は「スーパースターになったら」で述べられているプライドが「檻」というメタファーによって表現されているので触れておきたい。

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あるがままの心で生きられぬ弱さを

誰かのせいにして過ごしている

知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中で

もがいているなら

僕だってそうなんだ

名もなき詩/作詞:桜井和寿/作曲:桜井和寿

名もなき詩」は自己省察やラブソングとも解釈できるためテーマは絞れないが、「知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中」は作中で繰り返されるワードである。自分らしさ、とはプライドと近しい単語であり、「名もなき詩」における「あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしている」という誰かとの葛藤は、「スーパースターになったら」における語り手と世界の関係に似ている。誰かのせいで自分は思うように生きることができない、と考える語り手は「自分らしさの檻」を築き、そこに囚われていたのだという。語り手はいわば誰かと檻の二重苦で身動きがとれなくなっている。この構図を「スーパースターになったら」へ当てはめながら考えてみる。

 まず、前提をまとめると、自分は他人ないし世界の中にいる。しかし、自分の周りにだけは檻があり、自由に身動きがとれない。その檻は自分によって無意識に築かれたものである。「スーパースターになったら」において、檻に該当するのは「理由」だろう。彼は世界の流れは速いから自分がいくら力を尽くしたところで無駄な努力だと落ち込むが、これは言い換えれば、行動を起こさないための言い訳が彼を去勢させているのだ。なぜ彼が言い訳をするのかという疑問への答えには、「恥をかくだけだ」という羞恥心が該当する。彼は自らが起こした行動で失敗し、恥をかくことをひどく恐れている。恥をかくとは自尊心(プライド)を損なうことであり、彼の言い訳は羞恥心から端を発して築かれた檻である。すなわち、彼と世界とを隔てる檻とは、世界の分身ではなく彼の分身なのである。

 彼を閉じ込めている檻が彼自身を表しているのであれば、彼の内心には檻の中にいる自分と、檻そのものとしての自分という二つの自我が存在することになる。前者は外に出ようとしており、後者は前者を閉じ込めようとしている。しかし、もとをたどれば檻は彼によって生み出されたものだったはずである。すると、羞恥心によって分裂した自我の片鱗である檻は、彼を苦しめているのではなく、むしろ守ろうとしている、というべきなのである。彼のいう「守るプライドを間違っていた」とは、本来ならば自分を守るための道具に過ぎなかった檻を、いつの間にか自分自身のように守っていた、ということだったのだ。つまり、彼は敏感な自尊心を刺激しない羞恥心の檻の中にいるうちに、自ずと外へ出られない理由を見つけることで檻を強固にするようになっていた。そして、自らをますます幽閉状態へと追い込んでいたのである。このややこしすぎる独り相撲を自覚した時、彼はついに檻から出ていく。本作で繰り返される彼の宣言は、その証左である。恥をかくことを恐れる人間が、「スーパースターになったら迎えにいくよ」などと歌えるはずがない。

君がどこの町に住んでいても

遠くからでもよく見えるような光に

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 スーパースターときいて思い浮かぶ人物やイメージは様々である。しかし、スーパースターに共通するのは、その名声が土地や時代を超越するものだということである。彼は姿を消した恋人を追うのではなく、自身の成長によって追い越そうとしている。それは彼の意識が過去ではなく未来へと向き始めた兆候である。また、もう一点、この描写から推察できるのは、彼の呼ぶ「君」の意味するところがかつての恋人のみならず、過去の彼自身を指してもいることである。彼がただひたすらに恋人の姿を追い求めているのであれば、スーパースターになる決意とは別に、やはり恋人のいる所在を気にするはずなのだ。けれども、彼は「遠くからでもよく見えるような光」を目指した時点で、その問題を諦め、放棄している。この時、恋人の存在はかつて彼を守り、縛り付けていた自尊心と同じく、乗り越えるべき過去の自分を模した象徴として再認識されたのである。このように過去の後悔を未来の成功によって乗り越えようとする語り手は、アルバム『blues』(2012)収録の「平日のブルース」にも登場する。

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僕が歌うこの歌が

遠くの誰かの気持ちを

動かしてまたその人が

誰かの為になってさ

巡り巡って誰かが君を幸せにしたら

あの日僕が君とした約束も

ほら嘘じゃなかったでしょ

って事にしてもらえないかな?

(平日のブルース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

この描写からは、特にその想いがはっきり表現されている。恋人を失った悲しみや自らへの後悔を味わった彼は、その想いを歌という目に見える形によって表現する。彼の起こした行動は直接かつての恋人に届くとは限らない。けれども、檻から外の世界へと発する彼の行動は不特定の誰かには必ず届くものであり、いつかは誰かを救いうるかもしれない。またそれは、その誰かが他の誰かを救うきっかけになるかもしれないのだ。そうした救いの連鎖が、やがて彼が失った恋人まで繋がっていくのなら、それは極めて遠回しに、彼が彼女を幸せにしたことと同じなのである。

そして今度は

目の前の人を幸せにしよう

それだけでどんな過去も

救えるんだ

(平日のブルース/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

過去の後悔を清算しきった後は過去から離れ、「目の前の人」に向き合い、現在の相手と自らの幸せを育む。これが語り手の考える過去を救う手立てである。この哲学になぞらえれば、「スーパースターになったら」の語り手の尋常ならざる熱意も理解できるはずである。過去の無念を晴らし、失った自尊心を取り戻す手段は、不格好でも立ち上がり、がむしゃらに走り続ける未来にしかないのである。

二度と何ひとつ諦めない

もう一度好きに

ならざるを得ないような人に

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

 

スーパースターになって

男らしくなった新しい僕で

迎えにいくから

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 以上、「スーパースターになったら」について考察してきた。冒頭で本作がback numberのライブにおける終盤の定番曲であり、「結び」を意味づけられていると述べた。本作は失恋を機に自分の成長を誓った語り手が登場しており、終盤でも「迎えにいくから」との宣言で幕を閉じる。これは明らかに失恋からの出発を描いた作品なのだ。にもかかわらず、本作が結びの一曲として選ばれているのは、結びの否定に他ならない。すなわち、本作や「平日のブルース」で詳しく描かれてきたような決意の表明として、back numberはライブの最後に出発のブルースを叫んでいるに違いない。

 

back number「スーパースターになったら」考察──出発のブルース── 1/2

 

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  back number「スーパースターになったら」は、2011年のアルバム『スーパースター』に収録された楽曲である。『スーパースター』はback numberの記念すべきメジャーデビューアルバムであり、中でも本作は現在もライブにおけるシメの定番曲として演奏されている。本作以外で演奏される頻度の高い曲は「高嶺の花子さん」、「泡と羊」、「MOTTO」などが挙げられる。しかし、アンコール前のラスト一曲という限定で絞り込むと、本作が断トツで首位に立つ。「スーパースターになったら」は、それまでに「結び」という意味付けを与えられた作品だということができる。

このまま終わってしまうのは

絶対嫌だなって思ってて

それでも何もせず変化を

待ってたら君もいなくなって

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作の語り手もやはり失恋した人物のようである。語り手は既に恋人に去られてしまった後という状況におり、残念ながら破局を迎えた己の恋を回想している。冒頭の部分から想像するに、彼は恋人に去られてしまう前兆のような空気を感じていたようだ。それがいわゆる倦怠期なのか痴話喧嘩だったのかは不明だが、実態はそれほど問題ではないだろう。彼が嘆いているのは、むしろそうした問題に直面した自分の態度の方であった。

 彼は恋人と別れてしまうかもしれないと予感しながらも何もしなかったのだという。決して恋人と別れたいと思っていたわけではないのに、である。なぜか、と彼に問えば、「変化を待ってた」という答えが返ってくる。なんと情けない理由だろうか。けれども、何の見栄も張らずに彼を非難できる人間がどれほどいるだろうか。

君に嫌われる理由など

山ほど思いついてしまうけど

優柔不断と口だけの

二重苦がきっと決め手だった

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

なぜ自分は振られたのか、という疑問の答えを完全に理解できる人間がいるとすれば、その人は相当に幸運である。だいたいの人間は彼のように理解できず、答え合わせのない問題に取り掛かってしまうものである。彼が恋人から別れを告げられたのか、何も言わず去られたのかは本作の描写からは確定できない。しかし、仮に相手から別れを告げられたとしても、彼が恋人に自分の何がいけなかったのかと聞くことのできない人物だとは推察できる。それは彼が恋人に「嫌われる理由」を「山ほど思いついて」いるまでに自分の落ち度を自覚しているからである。ただ、彼の思う落ち度が本当に恋人にとって苦痛であったのかは描かれていない。おそらく彼は恋人から突然去られてしまった、もしくは連絡がとれなくなってしまったという線が濃厚で、そのために彼は恋人に振られた決め手について「きっと」と予想するしかないのだろう。

 本作が収録されたアルバム『スーパースター』には、同じく理由も不明なまま恋人から去られてしまった語り手が登場する作品がある。それはシングル『花束』のカップリングを初出とする「半透明人間」という作品である。

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どうして君は

嫌いだともう好きじゃないと

きちんととどめをさして

出ていってくれなかったの

だってそうだろう

終わってもいない事だけは

忘れられるはずがない

(半透明人間/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

この歌詞は自然消滅の失恋を味わったことのある人間ならば、わが意を得たりと膝を打つこと請け合いである。「半透明人間」というタイトルは恋人を忘れようとしながらも忘れられない語り手自身と語り手の記憶から離れない恋人の姿を指している。いわば未練がましく中途半端な自分を自虐した表現である。

他の誰かのとなりに居場所を見つければ

ちゃんと消えられるはずなんだよ

(半透明人間/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

ただ、この語り手は一応の解決策を見つけているようで、別の相手と関係を結びさえすれば昔の恋人を忘れられるはずだと考えている。「半透明人間」に特徴的なのは、恋愛相手に自らの「居場所」を見出している点である。この場合、居場所とは自己証明のひとつだと言える。なぜなら、彼が恋人と別れた途端に自らを(半)透明になったと自覚しているためである。彼のアイデンティティは他人と恋人のような固い繋がりをもつことによって初めて成立するものであり、一人きりでいることは誰からも存在を認められない状態に等しい。ゆえに彼は不安や恐怖を解消すべく、寄生先とも言うべき相手を求めるのだ。失恋を忘れるには新しい恋をするのが一番だとはよく言われることであり、「半透明人間」の語り手がもつ考えも、やや神経質なきらいはあれど決して少数派とは言い切れない。何かを忘れたい時に新しいことを始めてみるのは有効だろうが、こと失恋においては、そうやすやすと次の恋に移れないことは本作に限らないback numberの失恋ソングを聴いていれば明白である。

 失恋者はアイデンティティの居場所を失った不安を恋人との過去に浸ることで束の間の解消をはかる。そして、同時にこのままではいけないという未来への危機感との間で煩悶するのである。back numberの描く失恋ソングは、主にこの不安や煩悶をテーマにして描かれている。しかし、本稿で述べている「スーパースターになったら」は、他作品とは大きく異なっている。

君を取り戻す手段はひとつ

また好きにならざるを得ないような人に

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

スーパースターになったら

迎えにいくよきっと

僕を待ってなんていなくたって

迷惑だと言われても

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手は恋人という関係ではなく、かつて恋人だった一個人を求めている。振られた相手への執着心は他作品にも多いが、後悔の後に「また好きにならざるを得ないような人に」なろうとした男は少ない。彼の内心において、かつての恋人は過去の想い出ではなく、現在の目標という立ち位置に置かれている。「迷惑だと言われても」、「迎えにいくよ」と奮起する彼の姿は、ストーカーのそれとしてうつるかもしれない。しかし、本作の語り手はストーカーのように執着していても、決して相手を恨んでいない。

世界の流れは速いから

たとえ僕の足が折れるまで

思い切り走ったとしても

置いていかれて

恥をかくだけだ

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

そうやって理由を見つけて

仕方ないよなとため息ついて

今まではここで終わってた

守るプライドを間違っていた

(スーパースターになったら/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 スーパースターになる、という野望はあまりに無計画で大雑把だが、本作ではむしろそうした準備の必要性が否定されている。ここで肯定されているのは行動ただひとつである。元をたどれば、語り手の失恋は何も行動を起こさずに変化が起こるのを待っていたことが原因であった。やがて彼は自省の中で「守るプライドを間違っていた」と気づく。この部分に特徴的なのは、「プライドを守る」行為自体は否定されていないことである。プライドといえば何かとネガティブなイメージがあり、必要のないもの、むしろ持っていてはいけないものとさえ思われがちである。しかし、この言い回しによれば、そのような不要なプライドと同時に、守るべきプライドもまた存在していることになる。これはどういうことなのか。

 

back number「one room」考察──「青い春」の先──

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 back number「one room」は2012年のシングルアルバム『日曜日』のカップリングとして収録された作品である。「one room」はシングルを除くとアルバム、ベストアルバムともに未収録である。本作はback numberのファンクラブ「one room」の由来となっており、検索エンジンで「back number one room」と検索するとまずヒットするのがファンクラブの公式サイトである。故に、その存在が周知される機会を得られないという点で不運に見舞われた作品だと言える。

 しかしながら、「one room」はまさしく隠れた名曲と言うべき作品であり、検索エンジンに黙殺されるにはあまりに惜しすぎる。そこで本稿は「one room」にて語られる失恋表現の鑑賞を行うことで、インターネット上に少しでも「one room」の内容の魅力を形として残すことを目的としている。もっとも、このような文章を投稿したところで、世間に与えられる影響は皆無といってよく、砂浜に砂の一粒を増やす程度のものでしかない。けれども、それでも語らずにはいられないというのがファンではないだろうか。

青いカーテンにぶら下がって

僕を見下ろしてる想い出たち

仕方がないだろう

僕は窓を開けて

春が終わった事を知った

one room/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作が収録されたアルバム『日曜日』の「日曜日」は同棲中の恋人たちの幸せな生活を描いた作品だが、「one room」はそんな生活の終わり、ひいては二人の別れが描かれている。両作品の間に前後関係があるかは不明だが、共通しているのは互いにその曲調が穏やかなことである。楽しく暮らす恋人たちを描いている「日曜日」が穏やかな曲であることはともかく、明確に失恋がテーマになっている「one room」までもが穏やかであることには着目すべき点である。穏やか、とは実際どのようなものかというと、あくまで私感だが「one room」は卒業ソングのような、どこか悲しみを伴う悟りを開いたようなメロディなのである。「one room」が卒業ソングのようだと考えられる理由は、実はメロディ以外にもある。それは冒頭にある「青いカーテン」、「春が終わった」という描写である。

 まず、青について注目しよう。青という色は、back numberの作品おいて非常に意味深い表現である。本作が発表されたのは2012年で、メジャーアルバムでは『blues』の年にあたる。同アルバムに収録された「青い春」(2012)はまさに青をテーマとした作品である。

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まぁいいやが増えたのは 大人になったからじゃなく

きっと空気の中に変なものを

俺らが考えすぎんのを よしとしない誰かさん達が

混ぜて垂れ流しているんだろう

(青い春/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

back numberの作品において青は、色そのものというよりは青年、青春、青臭いといった若さを表すことが多い。「青い春」の他には「ベルベットの詩」(アルバム『ユーモア』収録)がこれに該当する。引用した歌詞はまさに子どもと大人の間を行き来する青年期の心情を描写したものであって、「青い春」の語り手は大人になりきれていない自己嫌悪の憤りを、子どもの立場から大人のはびこる世間へ向けた他責的な思考によって表現している。

 「one room」において青は「青いカーテン」として登場する。カーテンとは一般的には窓に取り付けるものであり、外から室内を隠す役割を果たしている。青いカーテンの青を若さという意味で捕えてみると、この作品でいう室内は心中であり、窓は心中から社会を見つめる瞳の役割を果たすものと考えられる。そして、その間にかかっているのが青いカーテンだったとすれば、語り手は若さゆえの未熟さ、「青い春」のような自己嫌悪のフィルターを通して社会や他人と関わっているという解釈ができる。そして、青が用いられているのが外から室内を覗かれることを防ぐためのカーテンであるからには、語り手はどこか自閉的な性格をもっている人物と推察できる。

 語り手は失恋という出来事によって窓を開く。つまり、社会(現実と言い換えてもいいかもしれない)と向き合う。青いカーテンに想い出がぶら下がっていたということは、語り手にとって今回の失恋は語り手自身の若さや、青臭いという意味では未熟さゆえの至らなさによって引き起こされたものだったとみてとれる。

 窓を開けた語り手は「春が終わったことを知った」という。春というのは、これまたback numberの作品において最重要ワードといっていいほど見逃すことのできない単語である。しかし、ここでback numberにおける春を語り始めると本当に春を迎えてしまうので省略すると、ひとまずは春が語り手にとっての恋を表し、春が終わったことを語り手が自覚したということは、彼が失恋を乗り越えたことを指すものである。

それなのに人も家も空も

何も変わらない街が

悲しかった

one room/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手は「春が終わった」と言うのだが、実際、彼の目に映るものは何も変わっていない。それは彼が自分は失恋を受け入れたのだと自分自身に言い聞かせていながらも、それはただ口で言うだけで、実は何も変わっていないことを表している。「春が終わったことを知った」という言葉は偽りなのである。カーテンを開き、窓を開けた先の景色が何も変わっていなかったということは彼が早く別れた恋人との関係に区切りをつけようと試みているのだが、本心では受け入れることができていない。ゆえに窓から見える景色は春のままで静止している。彼は別れた恋人への未練を断ち切れていないのである。

今年の夏は花火に行こうね

君が残してくれたものを

見つける度思う

ああなぜ君を

信じられなかったのだろう

one room/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 かつて聞いた恋人の言葉を思い起こし、彼は後悔に耽っている。「君が残してくれたもの」は物という形あるものや言葉のような形のないものに分かれるが、いずれも彼の部屋か心の内にあるわけだから、ここ彼は冒頭に見つめた窓から目を背けている。彼は失恋の原因を、彼が恋人を「信じられなかった」からだという。彼は恋人を疑い、そのために二人の関係へ亀裂が入ったと推察できる。そして、彼が恋人を疑ったことを後悔していることから、彼の疑いは誤りだったらしい。彼が真実を知った頃、既に恋人は彼のもとから去り、もはや帰ってこないという状況になってしまっていたのだろう。

テーブルの上の傷ひとつに

君を見つけている現状では

新しい恋はまだできないだろう

きみはどうだろう

one room/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

インターネットで語られる恋愛の都市伝説のひとつに「恋人の浮気を疑う人ほど浮気している」というものがある。しかし、彼の場合は違ったようである。彼の暮らす部屋には、かつて共に暮らしていた恋人の面影が残されている。テーブルについている傷さえも「君が残してくれたもの」であり、彼は恋人が去ってもなおその存在を部屋の中に感じている。「君を見つけている」という表現は、彼が意識的に部屋の中で恋人の存在を探しているからこそ出てくるものだろう。無意識であれば、見つけてしまう、となるはずである。彼がテーブルの傷を見つめながら「新しい恋はまだできない」と考えるのも、彼が傷を煩わしいものではなく、愛おしいものと感じているからに他ならない。

 テーブルの傷ひとつから恋人への想いを募らせた彼は、「きみはどうだろう」と恋人の現在を知りたくなり、再び窓の方へ意識を向け始めたと解釈できる。なぜなら、彼が問いかけている相手は部屋の中ではなく外にいるためである。傷から見つけられる恋人は過去の恋人であって、時を経て変化が訪れるものではない。故に彼が「どうだろう」と様子を気にする対象として、傷は当てはまらないのである。

僕がいなくても大丈夫かい

少し広くなった部屋が

悲しかった

one room/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼は続けて、「僕がいなくても大丈夫かい」と問いかけている。これは何の根拠のない著者の考えだが、誰かから「大丈夫?」や「元気?」というメッセージが来る時というのは、たいてい、受取人である私より送り主である誰かのほうが悩みや不安を抱えているものである。人は他人から言ってほしい言葉をおのずと他人へ言ってしまうことがあるのではないだろうか。そして、彼の場合もそうで、「大丈夫かい?」と尋ねるのは、彼が大丈夫ではないからなのである。閻魔大王のごとき無慈悲な観点から彼の問いに答えを出せば、お前がいなくても大丈夫だから出ていったのだと言わなければならない。実際そうでなければ出ていくはずがないのであり、当事者の彼にそれが分からないはずもないのである。分かっていてそれを言うからこそ、彼の感じている寂しさや無念さがいかに深いのかということが伝わってくる。

 彼は窓辺から部屋を見渡し、「少し広くなった」と思い、それが「悲しかった」と感じる。本作における「悲しかった」という表現は、もはやどうにもならないことに対して使われている。前半では、頭の中で春が終わったと考えてみても何も変わっていない現実に対して、そして、後半では恋人が去り、想い出に浸ってみても二人で過ごしていた部屋を一人で持て余してしまう現実に対して、この表現が当てられている。しかし、前半の彼は想い出にすがることで悲しさが逃れようとしているが、後半では変化が訪れる。

二人で買ったものを数えても

君の言葉を思い出しても

また思い知るだけ

ああ本当に

想っててくれていたのに

one room/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

幸せだった生活の欠片を集めても空しくなるだけ、と彼が考え始めている。また、「思い知るだけ」だと言う。部屋に置かれた恋人との思い出の品や、交わした会話を思い出すたびに彼が疑った恋人の想いを思い知らされるばかりだったのである。

二度と戻らないと

知っていながら

きっと捨てられず

僕は大切にしてしまうのだろう

なにもかも

なにもかも

one room/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

しかし、彼がいくら後悔したところで恋人が戻ってくるわけではない。それでも彼は恋人との思い出のすべてを「大切にしてしまうのだろう」と言う。自分のことなのに「だろう」と推定したような言い方をするのは、彼が自分自身を俯瞰的にみているためである。

 この引用部分は冒頭にも登場しているが、これは「悲しかった」同様、冒頭と終盤とでは意味合いが異なっている。冒頭では窓から目を背けた彼が部屋へ籠ろうとする意識を表現していた。一方で、終盤は窓を見つめながらこの言葉を言っている。これは恋人への想いを引きずったまま現実へ向き合おうとしている彼の決心ではないだろうか。悲しみの行き場を過去に閉じ込めていた彼の意識が、悲しみを現実に生きる自分の一部として位置づけようと変化しているのだ。本作はここで幕を閉じるが、悩んだ末に前を向いた彼の見つめる窓が閉ざされ、青いカーテンに覆い隠されることはなかったはずである。

 以上、「one room」について述べてきた。本作は自らの未熟さから恋人を失った人間が悩みと向き合った末、決着や折り合いはつかないまでも悲しみと共に現実を生きることを選ぶという精神的な成長が描かれたものだったのである。本稿では「青い春」と並べながら「one room」について考えてきた。「青い春」はアルバム『blues』の主役といっていいまでの代表曲であり、若さや未熟さそのものをテーマにした名曲である。Bluesといえば憂鬱や悲しみといった意味をもち、音楽ジャンルでは労働歌として扱われる単語である。back numberのアルバム『blues』のタイトルにもそういった意味はもちろん含まれているだろう。けれども、青がback numberにおいて若者を指すとして再度みてみると、blue(青)の複数形とみることもできるのではないだろうか。つまり、bluesはback number的な意味では「若者たち」だったのである。

 「one room」の語り手は未熟さを受け入れることで成長した人物であった。その点から言って、アルバム『blues』に入るには大人すぎたのかもしれない。『blues』の次に発表されたアルバム『ラブストーリー』には「繋いだ手から」、「君がドアを閉めた後」など、本作のように失恋から精神的に成長する語り手が登場してくる。その点から言って、「one room」は、こうした語り手たちの先駆けであり、若者と大人の対比ともいえる『blues』と『ラブストーリー』の間を繋ぐ橋のような一作だった、と評することができるだろう。

 

back number「怪獣のサイズ」考察──性欲のユーモア──

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 back number「怪獣のサイズ」は、本年8月4日に発表された配信シングル曲である。本作の内容を簡単に述べると、好きになった女性に既に恋人がいたという男の失望と後悔をコミカルに歌い上げたものである。本作には曲と併せてミュージックビデオも制作されており、「怪獣のサイズ」はback numberのミュージックビデオで珍しく、作中にメンバーが一度も登場しない映像となっている。

 「怪獣のサイズ」は片思いの挫折を描いたものであり、過去の作品ではシングル『僕の名前を』(2016)に収録された「パレード」が類似している。また、アルバム『ラブストーリー』(2014)収録の「高嶺の花子さん」にも(あくまで妄想だが)想いを寄せる女性にいる恋人の存在を考えて落ち込む男が登場する。この三作品に共通するのは、語り手の葛藤や失望をコミカルに、つまりはユーモアを交えて語る点である。さらにもう一つ、そのユーモアを発揮する場面が、語り手の性欲にまつわる問題に触れている点も見逃すことはできない。本稿ではback numberにおけるユーモアを交えた性欲表現について考察していく。

ああ そりゃまぁそうだな

僕じゃないよな

そして君は運命通りに

どうか そいつと不幸せに

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作はこのようなボヤきから始まる。これがたまらない。愛しの人に恋人の存在があると明らかになった時、彼は「不幸せに」とやっかみを言っているのだが、相手と自分が結ばれないことは「運命通り」だと考えているのである。相手を恨めしいと思いつつも結局は相手が好きだから自己嫌悪に陥るという片思いの空しさがここにはある。本作はミュージックビデオと並べて鑑賞されることが望ましい。メンバーが登場しないということもあってか、ミュージックビデオには本作を味わう上での重要な場面が多いのである。例えば、ビデオ内では矢本悠馬氏がいかにも優男の語り手を演じておられる。そして、時折場面が切り替わって怪獣が登場し、情けない語り手を窓から覗いたり、想いを寄せる女性の交際相手と思われる男性をわが手で滅ぼさんと光線を浴びせかけたりする。しかし、決して破壊できないどころか、傷一つも付けられない。この辺りから、怪獣は語り手の内心を具現化したものだということが分かる。

僕の胸の中にいる

怪獣のサイズを

いつだって伝え損ねてしまうけど

君がみたのは ほんの一部だ

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

語り手曰く、怪獣とは自らの胸の中、つまりは心の中にいるらしい。この描写で興味深いのは、彼が彼女に伝えたいのが怪獣の存在ではなく、あくまでサイズだということである。彼は彼女に自らの怪獣がいることは既に伝わっているけれど、そのサイズは伝わっていないはずだ、と考えている。ミュージックビデオでは語り手と思われる男が恋する女性に対して指輪や花束を贈る場面があり、女性はことごとく男のものよりも大きな宝石の指輪や数の多い花束を彼に見せつける。すなわち彼は自身が彼女にかける想いが、彼女が恋人から与えられている想いのサイズに適っていないことを知り、打ちのめされているのだ。しかし、諦めきれない彼は、それは「伝え損ねて」いるだけで、証拠はないけど本当はもっと大きなサイズなんだと負け惜しみを言っているわけである。

何も壊す事が出来ずに

立ち尽くした怪獣が

僕の真ん中に今日も陣取って

叫んでるんだ

嫌だ!嫌だ!君をよこせ!って

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 怪獣とはどうやら彼の想いを表すものらしい。けれども、想いというだけでは答えにならない。怪獣の中身に潜んだ想いとはどのようなものか、と踏み込んで考える時、この描写は作中で最も重要である。怪獣は何かを壊そうとしているが果たせず、立ち尽くしたまま叫んでいる。壊す事のできないことを叫んでいるわけだから、破壊とは怪獣のもつ目的であり、存在意義でもある。怪獣が壊したかったもの、そして欲したものは「君をよこせ」というように、彼女である。もっとも「壊す」という願望は彼女自身ではなく、語り手と彼女の間にあった関係の隔たりなどに向けられているのだろう。

 本稿の冒頭にて、back numberのユーモアには性欲が関わっていると述べたが、本作における性欲の問題もまた、この描写である。そもそも相手を恋する想いの中に性欲が含まれることは言うまでもない。しかし、ミュージックビデオをみる限り、怪獣は本能のままに彼女にキスをし、押し倒す(※看板に描かれた彼女ではあるが)。そして、ミュージックビデオ後半では彼女自身が巨大化することで本当にキスをする場面もある(※怪獣の大きな口に彼女が顔をつっこむ形ではあるが)。また、そもそもこの歌詞からして、「立ち尽くした怪獣」とその行動が、明らかに勃起した男性器のメタファーなのである。怪獣もとい性欲が「君をよこせ」と不満に喘いでいるのだ。ただ、いきなりペニスの問題を出すのは突飛過ぎるから、ここで一度back numberの作品の中で語り手の性欲が登場する場面をいくつかみてみる。

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さぁ堪えよう彼だけに見せる

あんな姿こんな姿の

君など想像してないで

あぁなんで 僕だって見たいのにな

(パレード/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

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君を惚れさせる 黒魔術は知らないし 海に誘う勇気も車もない

でも見たい となりで目覚めて おはようと笑う君を

(高嶺の花子さん/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

これは冒頭にて触れた二作品における描写である。「あんな姿こんな姿」、「となりで目覚めて おはようと笑う君」のいずれも恋する相手との肉体関係を望む性欲が描かれている。ただ、それでも「パレード」、「高嶺の花子さん」はまだ性欲を匂わせる程度の間接的な描写に留まっている。けれども、この二作品の後、back numberはより性欲を包み隠さずに描いた作品を発表しているのだ。それはシングル『瞬き』(2017)のカップリングとして収録された「ゆめなのであれば」である。「ゆめなのであれば」は想いを寄せる女性が夢の中に出てきた男の妄想を語ったもので、男は相手に抱きつかれたり、手を繋いで歩いたり、笑わせたり歌わせたりとやりたい放題の内容は、ほぼ夢精譚である。本作では前の二作にはない直接的な性欲の描写がみられる。

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このまま手を離さなければ 覚めないで済むのかな

そして君と夢の中 嗚呼 胸触りたい

(ゆめなのであれば/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「胸触りたい」。ここまで露骨な描写は過去の作品に類を見ない。そして、この作品の発表をもってback numberはサザンオールスターズの「エロティカ・セブン」ばりに開けっぴろげにされた性欲を堂々と表現できる、そこまで言ってしまっても公衆に許される地位にまで到達したと断言できる。そのため、この「ゆめなのであれば」という作品がある事実上、「怪獣のサイズ」における男性器のメタファーの仮説についても、やはり有り得ないとは言えないはずである。その点を踏まえ、「怪獣のサイズ」はカップリングではなくアルバム曲でもなく、一曲単体のシングルとして発表されていることからも、「高嶺の花子さん」以降のback numberにおける史上屈指の挑戦作であることが分かる。

ああ 君に恋をしてさ

嫌われたくなくてさ

気付けばただの面白くない人に

違ったそれはもとからだった

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 作品が二番に入ると、怪獣の描写から語り手がとった行動の描写となる。ここでは不満に暴れ回る怪獣と比較されることで弱々しい語り手の姿が強調されている。相手に嫌われたくないがゆえに波風の立たない無難な接し方をしていた結果、「ただの面白くない人」になっていたのだと彼は言っている。本当はもっと面白いことも言えるのに、という歯痒い思いに苦しむ語り手は、シングル『思いさせなくなるその日まで』(2011)のカップリングとして収録された「はじまりはじまり」に詳しく描写されている。個人的に、「怪獣のサイズ」の語り手には、これまでのシングルアルバムのカップリング曲の主人公たちの要素が寄せ集められたような印象を覚える。また、「ただの面白くない人」に対して「それはもとからだった」などとツッコむ辺りの隙も容赦もない自己嫌悪は、彼女に恋することで張り切っていた自分を自嘲的に評価するものだが、back numberの作品に出てくる片思いの語り手たちは、恋愛を単なる快楽の遊びではなく自己変革のきっかけにしている点で多く共通している。

馬鹿な僕も優しい僕も

傷も牙もずるいとこも

全部見せなくちゃ駄目だったな

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作の歌詞はメタファーもそうであったが、シンプルなようで実は難解な描写が多い。この部分も一見すると相手に嫌われたくないが故に当たり障りのない態度をとってしまったことへの後悔だと単純に理解できる。が、なぜ「全部見せなくちゃ駄目だった」のかについては一考を要する。「傷も牙もずるいとこも」というのは語り手の性格というよりは裏向きになった人間の本性を指している。人は皆、他人から受けた傷をもっているし、また他人を傷つけた牙をもっているものだろう。だが、一般的にあり得る考えとして、恋する相手には格好の良い自分の姿だけを見せたいとはならないのだろうか。自分に自信のない本作の語り手のような人物であれば、なおのこと自分の傷という弱い一面や、牙という攻撃的な一面は隠したいと思いそうなものである。むしろ、傷や牙を見られる前に振られてよかったとは思わなかったのだろうか。

僕の胸の中にある

君宛の手紙は

最後まで渡しそびれ続けたけど

本当は傑作ぞろいなんだよ

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

そうした疑問に対する考察には、語り手の手紙にまつわる後悔が多くの示唆を与えてくれる。通常、手紙というのは遠くにいる相手に対して自分の気持ちを綴ったものだが、ラブレターの場合はやや事情が異なる。近くにいる相手に直接言えない本音を紙にしたため、相手に渡すのである。ラブレターとは愛の告白における手段だけを遠回しにすることで相手との間に生ずる気まずさを緩和させるのに有効な手だと言える。だが実際、遠回しであっても、相手に伝わる内容は直接告白した場合と何ら変わりはないのである。しかし、相手に自分の全てをさらけだせない語り手は、傑作の手紙を綴ることはできても渡すことはついにできなかったのである。

僕の腕の中に誘う

ただ唯一の合図は

ゴジラカネゴンだって僕だって

違いは無いんだ

嫌だ!嫌だ!君をよこせ!って

言えばよかった

(怪獣のサイズ/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 これが本作の結びである。合図というのはサイズとの韻を踏んだものだと考えられるが、重要なのは合図という言葉が相手に対して自分の気持ちを伝える行為だということである。語り手はその後にゴジラ(初代ゴジラと仮定した場合:体長50m)、カネゴン(体長2m)、僕(清水依与吏と仮定した場合:体長169.8cm)というように、怪獣と自分自身をサイズの大きい順から並べている。そして、合図にはどれにも違いはないのだと主張する。それは先ほどの後悔と通ずるもので、あるがままの自分を相手に見せることが重要だったのだから、自分のサイズが周りよりどれだけ小さかろうとも関係ないということである。冒頭で触れたが、ミュージックビデオ内では、語り手とみられる男性が想いを寄せる女性の恋人との想いのサイズに臆してしまう場面があり、その度、語り手は贈り物を渡すことができない。指輪は懐にしまい、花束は食いちぎってしまう。語り手の後悔とはまさにその行動だったのである。サイズ感など気にしないで、とにかく渡してしまえばよかった、と嘆いているのだ。

 以上、「怪獣のサイズ」について述べてきた。本作では片思いという状況における性欲と後悔を怪獣というキャラクターに託すことによってユーモアを与え、悲観的ないし自嘲的でありながらも明るく表現することに成功している。そして、これまでの「パレード」、「高嶺の花子さん」ではみられなかった、そして「ゆめなのであれば」でその片鱗を見せた具体的な性欲の描写を巧みに取り込むことで、本来であれば言い難くなりがちなテーマを高らかに歌いあげている。本年一月、back numerはアルバム『ユーモア』を発表した。このアルバムはタイトル通りユーモアを前面に出した曲が並んでいる。そして、このアルバムに連なる形で世に送り出された「怪獣のサイズ」は、これまでback numberが失恋ソングの中で繰り返してきた自己否定を連続する形から、自己救済・肯定へ至る形へ変化したことを明確に示した作品だとも言える。そして、否定から肯定へと移るための鍵として、彼らはユーモアという着ぐるみを手にしたのである。

back number「君がドアを閉めた後」考察──「月やあらぬ」は蘇る──

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月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

(『伊勢物語』第四段)

 『伊勢物語』において、「月やあらぬ」が作中屈指の名歌であることに疑いはないだろう。「むかし、をとこ」という有名な書き出しで始まる伊勢物語は、昔こんな男がいた、というエピソードの羅列された物語集であり、そのモデルは一般に在原業平とされている。内容の大半は失恋体験であり、「月やあらぬ」の歌が載せられた第四段もその一つである。まず第四段の内容を端追って紹介しておく。東の五条にある館で暮らしていた女に恋していた男は、その想いを果たそうと館に通っている。しかし、突然女は男の前から姿を消してしまった。男はすぐに女の身元を探し当てたが、その行き先は身分上の問題により、男がこれまでのように通える場所ではなかった。男は女との別れを確信する。翌年になっても想いが断ち切れなかった男は、再び五条の館へと訪れる。しかし、男の期待に反して、そこにはかつての思い出が何一つ無く、その面影すらも見つけられなかった。そうして男は「月やあらぬ」の歌を詠み、泣く泣く帰っていったというあらましである。

 「月やあらぬ」を浅学ながら意訳すると「この月はあの夜の月とは違うのか。この春でさえ、あの時の春ではないのか。ここにいる私は、あの頃のままなのに」である。伊勢物語が成立したのは実に200年以上も前の話である。けれども、本歌は現代においても恋した相手に去られてしまったという失恋を体験した者ならば、共感すること請け合いである。そして、このような時代を超えて受け継がれてきた失恋の感傷を、舞台を現代に移し替えてリバイバルした天才がいる。back numberである。

 back number「君がドアを閉めた後」は、シングルアルバム『高嶺の花子さん』(2013)が初出、その後、メジャーアルバム『ラブストーリー』(2014)、ベストアルバム『アンコール』に収録された。シングルのカップリングでありながらアルバム曲、果てはベストアルバムへとのし上がったいぶし銀の一作である。本作は失恋後、同棲していたと思われる恋人が去り、一人暮らしとなった男の心境を歌ったものである。

線路沿い家までの道を

缶ビールと想い出を一人ぶら下げて

サンダルのかかとを引きずって歩く

僕を自転車が追い越して離れてゆく

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

缶ビールをもち、サンダルでかかとを引きずって歩く男。自堕落な情景から本作は始まっていく。歩き方からして、彼は家までの道をゆっくりと進んでいるようだ。それは疲れ果てているのでそうするほかない、もしくはできれば帰りたくないという意識の表れだろう。彼の傍には線路があり、後ろからは自転車が走ってきて、彼を追い越す。

君とよくこの道を商店街の帰りに

近道でもないのになぜかいつも通って帰ったね

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼の引きずる想い出とは、かつての恋人と過ごした生活の記憶である。想い出は彼のいる帰り道にさえ顔をのぞかせて、足の進みをますます重くさせる。彼の心中は過去で満たされている。身体は当然ながら現在にあるが、後ろから追い越していった自転車を見やり、その距離を意識する辺り、彼は自らの生活が過去の想い出によって停滞していると考えているのだろう。

君がいればなあって思うんだよ

服を選ぶ時玄関のドアを開けた時

新しい歌ができた時

君ならなんて言うかな

君がいればなあって思うんだよ

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 停滞の原因は言うまでもなく失恋である。「玄関のドアを開けた時」というのは、外から玄関へ入る過程を指している。今外にいる自分が部屋で彼女が待っていたらいいのに、と考えているのである。けれど、そんなことがあるはずもなく、ドアを開けても暗い部屋があるだけなのを知っているから、彼は帰りの足取りが遅い。つまり、彼は失恋の自覚を既にしていながらもなお、それを避けようとしているのだ。前後にある「服を選ぶ時」、「新しい歌ができた時」は、彼女に恋をしていた彼が、生活における善し悪しを決める基準を全て彼女の反応に委ねていたことの証左である。彼女を失った彼は、服屋で服を選ぶ時も、新しい歌ができた時でも、それが良いのか悪いのかという価値判断ができなくなってしまっている。失恋後、日常の中でかつての恋人の面影を求める心情は山崎まさよしの「One more time, One more chance」にもみられる。

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いつでも捜しているよ どっかに君の姿を

向いのホーム 路地裏の窓

こんなとこにいるはずもないのに

One more time, One more chance /作詞:山崎将義/作曲:山崎将義

One more time, One more chance」と本作を比べてみると、前者が恋人の面影を日常の風景や場所に投影しようと試みているのに対し、後者は「時」というように、日常の行動や場面に投影しようとしていることが分かる。特定の場所によって別れた恋人を思い出すという場合、苦悩を避けるには単にそこへ行かなければいいだけである。しかし、日々の行動の中で別れた恋人を思い出してしまうとなると、これは避けようがない。部屋を変えようが町を出ようが、彼の苦悩に何の影響も与えられない。

何度目が覚めても君はいなくて

だけど目を閉じると君がいて

季節は巡るからこんな僕も

そのうち君の知らない僕に

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 去ってしまった恋人は、目を開けている間にはいないのに、目を閉じている間には彼の前に現れるのだと彼は言う。彼の意識は時間の刻々と進む現実と静止した夢の間を行き来する。しかし、人は生きていく上で夢ばかりみていることはできないのであり、結局は現実に引き摺られていく。彼が目を閉じている間も季節は巡っていき、閉ざした視界の外にいる彼の姿さえ変えてしまう。

君が気に入ってた雑貨屋も

今はなくなって別の店が入ってて

角の花屋もそういえばあのアパートも

僕は今でもあの時のまま

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

そうした心身の間のギャップに気づく時、彼は「月やあらぬ」の男と同じ心境へと至るのだ。

 二人で暮らしていた町は、時を経るごとに変化する。昔あったものはなくなり、新しいものがその隙間に置かれていく。そうして町の風景は移り変わっていくのだ。彼がどれほど彼女のことを考えていようとも、彼の日常は彼女なしに進んでいき、彼の気付かないうちに彼の記憶から彼女の姿は消えていく。そうしていつか空いた心の隙間を埋めるように新しい恋へ踏み出す時には、彼はもう「君の知らない僕」になっている。それは彼にだけ言えることではなく、彼の元を去っていった彼女とてそうなのである。彼女は彼女で日常を過ごし、心身ともに変わっていくのだ。一方で彼が抱き続ける彼女の姿には、何の変化も訪れない。故に、彼の見ている彼女は実際の彼女と似ているようでも全くの別人といえる。それは時間の静止した彼女の偽物であり、いわば彼女をモデルにした傀儡に過ぎないのである。

君がいればなあって思うんだよ

靴を選ぶ時玄関のドアを閉めた時

新しい歌ができた時

君ならなんて言うかな

君がいればなあって思うんだよ

(君がドアを閉めた後/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 ここまでみてみると、中々救いようのない内容である。本稿では「君がドアを閉めた後」の語り手が失恋によって過去に囚われてしまったという観点から考察してきた。その上で本作のタイトルに目を向けると、「君がドアを閉めた後」とは、失恋の後日談を指すものだという解釈と共に、ドアを開閉する行為が、時の進み・止まりに影響しているとも考えられる。本作の中で彼は、「ドアを開けた時」、「ドアを閉めた時」と、ドアの開閉をどちらも行っている。常識として、ドアを開けたのだからそりゃ閉めることもするだろうと考えることもできる。しかし、タイトルからして、重要なのはドアを閉める行為だと思われる。

 彼と別れて新たな日常を生きることを選んだ彼女は、ドアを閉める、つまり、彼とその思い出を置き去り、出ていったのである。そして、彼は本作の結びの場面にて、彼女と同じ行動に出ている。ドアを閉める行為には二通りの状況があって、一つは部屋に入るために開いたドアを閉める場合、もう一つは部屋を出ていくために開いたドアを閉める場合である。本作におけるドアの描写もまた、二通りである。「服を選ぶ時玄関のドアを開けた時」、「靴を選ぶ時玄関のドアを閉めた時」の二つである。冒頭が家までの帰り道を描かれているので一見勘違いしそうになるのだが、「服を選ぶ時」、「靴を選ぶ時」は、いずれも家の中から外へ出る際にとる行動である。つまり、彼女を想いながら帰り道にある冒頭の時点で、彼は既に彼女との記憶を閉じようと試みていたことになる。

 愛する恋人を失った人間がひとりきりで服や靴を選ぶ時に、あの人ならどう言うのだろう、と考えたとする。そして、答えが得られないという場合、大方の人間はそれでも自分が選んだ服と靴で外へ出るだろう。そうするほかないのだから。誰かの好きな服や靴ではなく、自分の好きな服や靴を身に着けるということは、本人の願望とは関せずとも、好かれたい相手を慮った作られた自分から、本来の自分を取り戻すきっかけになる。彼は彼女を想いながら日常を過ごす度に、少しずつ現実へと戻っていくのだ。

 冒頭で彼は線路沿いの道で自転車に追い越されており、ここには彼の過ごす時間が現実との間で遅れを生じていることが示唆されていると本稿では述べてきた。これに加え、もう一つ仮説を述べたい。それは線路沿いを歩く彼を取り巻く状況についてである。恐らく自転車に追い越される前まで、彼は脇の線路を走る電車にも追い越されていたはずなのである。自転車と電車の速度は比べるまでもなく、彼を追い越す車両に現実との遅れを見出す場合、自転車に追い越される彼と電車に追い越される彼もまた、大きく異なっている。つまり、かつて彼の過ごす時間と現実との遅れは、電車という人力ではとても追いつけないほどの速さをもつ車両との差まで離れていたのである。もはやそれは遅延どころではすまないまでのところまで彼は陥っていたのである。しかし、日々が流れていくうち、彼は自らを取り戻し、現実との差は自転車と徒歩までに近づいた。つまり、本作で語られている心境は失恋からしばらく経った時点のものだと考えられる。

 Mr.Childrenのアルバム『IT'S A WONDERFUL WORLD』(2002)収録の 「渇いたkiss」という曲には、本作同様に恋人に振られてしまった男の心境が語られている。ここでは別れてしまった恋人に抱き続ける想いが胸の傷として描写されている。男は恋人にも同じような傷が残っていて欲しいという恨み節を、からかうように語る。

ある日君が眠りに就く時 誰かの腕に抱かれてる時

生乾きだった胸の瘡蓋がはがれ

桃色のケロイドに変わればいい

時々疼きながら

平気な顔をしながら

(渇いたkiss/作詞:桜井和寿/作曲:桜井和寿

「桃色のケロイド」は傷が治っても跡として身体に残り続ける。恋人に傷をつけた側である男は、それが綺麗さっぱり無くなって欲しくない。別れてしまった今、傷だけが二人を繋ぐ唯一のものだからだ。胸の傷ないし傷跡は、新しい恋人ができても自分を忘れて欲しくない、あの人を忘れたくない、という未練の表現なのである。

 さて、この傷跡という切り口から、もう一度「君がドアを閉めた後」へ戻り、ここで度々登場する「君がいればなあって思うんだよ」というボヤきを考えてみる。失恋から時が経ち、生活の中で彼は自らを取り戻しつつあるわけだから、実は彼にとって彼女の存在は、さほど必要なものではなくなってきている。むしろ、今や要らないものである。それなのに、どうして彼は彼女を欲するのか。恐らく彼は「君がいればなあ」と思うことで、もう彼女がいなくてもやっていける自分になってなお、彼女の存在が自分に刻み込まれていることを確かめているのではないか。つまり、「君がいればなあ」という台詞は、彼による彼女との思い出をたとえ不要なものであっても忘れたくないという意思の表明であり、失恋によって刻まれた傷が消えることなく跡として自らに残り続けることを、彼は願っていたのである。

 

<参考文献>

永井和子『原文&現代語訳シリーズ 伊勢物語』(笠間書院、2008・8)

back number「君の代わり」考察──引きずりから同伴へ──

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 前回「繋いだ手から」考察の中で、back numberのインディーズ時代とメジャー時代の違いについての私見を述べた。それは失恋経験に対する向き合い方であり、前者は過去の失敗を後悔ないし否定するもので、後者は過去の失敗を含めて肯定しようという違いであった。本稿ではそのもう一つの例として、「君の代わり」についての考察を行っていく。「君の代わり」はシングル『わたがし』(2012)のB面として「平日のブルース」と共に収録された。「平日のブルース」は「わたがし」と共にアルバム『blues』(2012)に収録されているが、本作は外されている。そのため、シングルでしか聴けないという点で「君の代わり」はニッチな作品と言える。

 しかしながら、アルバムに収録されていないからといって、その曲が無用の長物、いわゆる「捨て曲」だとは限らない。例えば、シングル『日曜日』(2012)のB面に「one room」という曲があって、本作同様アルバム未収録だが、この曲はback numberのファンクラブ「one room」と由来ともなった名曲である。

会いたい時はいつだって

私もだよって笑っていたあのコが

昨日さよならも言わず

出ていったよ

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「君の代わり」の語り手はまさに失恋直後の状況にいる。「あのコ」という表現は、恋人だった彼女を敬うあまり、「子」や「娘」といった幼さを思わせる漢字をあてることを避けようとの意識から出てきたものだろう。語り手は、かつて会いたいと告げれば「私もだよ」と笑って返してくれた恋人が別れる時には何も言わずに出ていってしまったと呟いている。その態度はどこか自嘲的で、投げやりな感がある。

蓋を開ければいつも

僕らはいったい何で繋がって

何を失くして離れたんだろう

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「蓋を開ければ」とは、物事の結果や正体が明らかにされた際に用いられる表現である。恋愛の場合、蓋は失恋という結果によって開かれる。そして、語り手は自問自答をすることで、二人の関係の正体を明らかにしようと試みている。しかし、まるで解剖でもするみたく考えてみても、自分と彼女が「何で繋がって」、「何を失くして離れた」についての答えが見つからない。二人で作り上げた関係に一人で答えを出そうとしても無理なのである。

君に会えた事も

会えなくなった事も

きっと意味のある事なんだろう

全部持っていこう

君の代わりに連れて行こう

大好きだった事も認めよう

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

そこで彼が見つめるのは、目の前の現実であった。彼女と出会い、恋をして別れた。この事実だけを取り出して、彼は現実ないし未来を思っている。この答えの出ない恋の結末が、いつか意味をもつ時が来るのかもしれない、と考えている。その上で、「全部持っていこう」と決意する。つまり、付き合い、別れてもなお見えなかった二人の繋ぎ目も切れ目も、それでも恋をしていた自分を含めて認めた上で、悩みながら生きていこうというのである。

 割り切れない問題に対し、答えを出さないことを選択する語り手は「電車の窓から」にも共通したメジャー時代のback numberにおける特徴のひとつである。本作の語り手と並べてみたい作品としては、インディーズアルバム『あとのまつり』(2010)収録の「風の強い日」が挙げられる。「風の強い日」は本作同様、失恋後の悩める心象を春の情景と共に語られている。「風の強い日」の語り手は、必死に答えを出そうともがいている。そして、やはり答えが見つからず、未だ冷め止まぬ恋心に苛まれ、痛ましい自己否定へと陥ってしまうのである。

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あなたの思うような人にはなれなかったよ

あなたが思うよりずっと変わろうとしていたんだよ

足りなかったのはそう不安を吹き飛ばす程の

僕の優しさか強さかあなたへの想いか

それとも弱さを見せられる勇気かな

(風の強い日/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

それでもいつか歩き出して

また同じように誰かを好きになるのかな

もう少しここにいるよ

(風の強い日/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「もう少しここにいる」という「風の強い日」における失恋への態度は、インディーズ時代のback numberの特徴だと思われる。答えが出るまで過去にしがみつこう、現実に置いて行かれても、傷を負ってでもここにいる、という頑なな過去への執着である。「風の強い日」と比べると、「君の代わり」には失恋の悲しみに執着せず、かといって否定もせずに受け止める成長した語り手の姿がみられる。

 ここでひとつ留意させていただきたいのだが、著者はここでインディーズ時代とメジャー時代を比較してその優劣を語ろうというのではない。インディーズ時代のback numberにて表現され続けた繊細さ、まるで鎖に縛られながらもがくような激しさは、このような弱さ、頑固さによって生み出されたものである。また成長とは必ずしも昔より優れたことを意味するわけではない。得るものがあれば、失うものも当然あるはずで、それは物事が変化するにあたって避けられぬ摂理である。

心の中はいつだって

見えないからって

諦めていたんだ

あれが駄目だったのかなって

思うけど

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作の語り手も、自分が彼女と別れてしまった原因について考えを巡らせる。しかし、自問と自責に終始していた「風の強い日」と比べると、本作では自問の後に自答を導き出している。それは彼女の心中、すなわち本心への諦めであった。他人の本心というのは、決して覗くことはできない。思い図ることはできても、それが真実かどうかは分からない。しかし、それでも知りたいと考えるのが人間の性というものであり、相手が恋する相手の心であれば、なおのこと必死に知ろうと試みることだろう。

 彼はそうした欲求を「諦めていた」。それは彼の恋心が冷めたものであったため、ではない。それならば諦めるという表現はふさわしくない。なぜなら、諦めるという決断は、まず満たしたい欲求があって初めて出てくるものである。本作の語り手は失恋した直後でありながら、その心象はことのほか落ちついている。それは彼が積み重ねてきた失恋経験の表れではないだろうか。つまり、彼は彼女の本心を知りたいと強く思いながらも、その欲求が満たされることはないと経験則で知っていた。故に、彼は彼女の本心を諦めることが最も適した選択のように思われたのだろう。

誰かがいつか歌っていた

見えないからこそ信じるんだよ

そんな強い人ばっかりじゃ

ないよ

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼は今までの苦い失恋から得た経験を生かすことで、今度の恋愛こそ上手く立ち回ろうとしたのだが、結局また振られてしまった。諦めるという行動は、経験上正しかったとしても、相手からすれば彼を冷めた人間であるかのように思わせたのかもしれない。この部分ではやや不貞腐れた感情がみてとれる。「見えないからこそ信じる」とは、「誰かがいつか歌っていた」理想のことを言っている。誰かとは世間の言い換えであろう。

 恋愛という現象は個人の極私的で狭い領域が交わされることで成り立つわけだから、世間や社会といった大きな枠の外にあるものだといえる。そのため世間で語られる恋愛の諸相は、しばしば大雑把であったり理想的であったりし過ぎる。そのような物言いは、世間の外で本当に恋愛をしている者たちにとっては全くの綺麗事、あるいは自分たちとは別世界にある絵空事の恋愛のようにしか思われない。

 これはback numberについて述べている本稿の筋とは離れるが、2019年にOfficial髭男dismが発表した「pretender」は、そうした恋愛と世間の齟齬を歌っている。

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誰かが偉そうに

語る恋愛の論理

何ひとつとしてピンとこなくて

飛行機の窓から見下ろした

知らない街の夜景みたいだ

(pretender/作詞:藤原聡/作曲:藤原聡)

「pretender」においても、世間は「誰か」と表現されている。もちろん作詞者が異なるので一様にこれがどうだとは言えないが、それにせよ「飛行機の窓から見下ろした」、「知らない街の夜景みたいだ」という比喩の素晴らしさといったらない。この比喩は世間特有の俯瞰的な物言い、物の見方に対するアイロニーとして効果を上げている。高い位置から夜の街を見下ろした時、そこには点々と灯る光が印象的に映し出される。家宅から漏れ出たものであったり、外灯であったりがその出元だろう。

 街を照らす光の数々は鮮やかであり、窓から見下ろす人間の目には、その街の全てが美しいもののように思われる。しかし、その実際の街がどうであるかということは、地表に立っている人間にしか分からない。そして、光がいくつもあったとしても、隙間には必ず闇が隠れているものだが、上から見下ろしている人間にはそれが分からないし、闇の中にいる照らされない人達の存在にも気づかないで、光そのものや、あるいは光に照らされている人達だけをみて、その街を語ってしまう。これが世間と恋愛の齟齬である。

 更に「pretender」では両者のすれ違いが「僕」と「君」の関係と並べられてもいる。作中で「僕」が何度も繰り返す「君は綺麗だ」という言葉は、飛行機の窓からみた街の景色に感じる綺麗さと違いはない。つまり、どれほど彼が彼女を想っていたとしても、二人の関係が薄いあまりに「綺麗だ」や「好きだ」とか言った言葉へ重みを与えられないのだ。「pretender」の語り手が世間との齟齬に気づけるのは、彼自身が彼女との間に感じる距離感が、それと全く同じだったからではないだろうか。つまり、自分は彼女の上面しか知ることができないという悲しみや寂しさが、彼に俯瞰の孤独を知らしめたのである。

そのうちきっと僕らは

一緒にいない事が

続いてそれが普通になって

それで それでここには

何が残るんだろう

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「君の代わり」に戻る。本作も終盤である。彼女と別れた後、彼は「何が残るんだろう」と考える。「ここ」とは、前述した「風の強い日」における「ここ」と同様、過去や思い出を指しているのだろう。明日から彼女のいない日々が始まるのに、このまま気持ちだけ立ち止まらせて何になるのだろう、と彼は自問する。

全部持っていこう

君の代わりに連れて行こう

離れるのは嫌だと認めてしまおう

(君の代わり/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

そして、噛み締めるように「全部持っていこう」、「連れて行こう」と自答する。これから始まる生活に彼女はもういないのなら、今ここにある悲しみや後悔をその代わりにしようという。本作にて繰り返される「認めよう」、「認めてしまおう」とは、諦めることと同じようで違う。諦めるとは、結果を知った上で考えることを放棄したことだと言えるが、認めるとは結果を知った上で現状を見つめ続けることである。彼は経験を積んだからこそ陥ってしまった諦観を自覚した。そして、そんな自分を見直し、失恋の未練と共に生きていくことを選んだのである。

 以上、「君の代わり」について述べてきた。本作は失恋の未練を自らの一部として引き受ける語り手が登場した。未練をもったまま生きていく語り手自体は『あとのまつり』収録の「あとのうた」にも出てくる。しかしながら、インディーズ時代の「あとのうた」の引き受け方は、

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僕は少し強くなって生きてるんだ 本当だって

君がいなくたって大丈夫なんだ

それに今君を考えているのだって

引きずっていれば削れてなくなるって計算の上さ

(あとのうた/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

というように、引きずりながら生きていく、という障害としての未練である。しかし、本作で描かれた未練の引き受け方は、引きずりというより同伴だといえる。両者の違いは未練を消したいもの、邪魔なものだと考えているか、欠かせないもの、大切なものと考えているかという点だろう。未練の捉え方に正解はないのだろうし、「あとのうた」の語り手にある悲しみを裏返したような勢いは、未練を自分自身の燃料としたものであって、それはそれで良いのである。このようにデビュー時から一貫して失恋というテーマを描かれ続けていることで語り手の成長や変化を見るという鑑賞ができることが、back numberのもつ最も大きな魅力ではないだろうか、と個人的に思う。