back number「雨と僕の話」考察──虹が出る前に──

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泣く涙雨と降らなむ渡り川水まさりなば帰りくるがに 

小野篁

 雨と恋愛は古より縁深い組み合わせである。引用した和歌は古今集に収録されたもので、作者は平安時代文人、公卿として活躍した小野篁である。この歌は篁が若くして亡くなった自身の妹を想って詠んだとされており、「渡り川」とは現世とあの世をつなぐ三途の川を意味している。通説によると篁とその妹は血縁でありながら恋仲であったとされる。そこを踏まえると、この歌には身内の死を嘆く哀傷と、恋人を失った者に訪れた失恋の情を読み取ることができる。ちなみに古典文法はからっきしな癖に和歌は好きな筆者が歌を意訳してみると、「私の涙を雨にして降らせたい。雨が三途の川を乱して、あの世へ渡る彼女がここへ帰ってくるように」となる。

 篁の歌は妹を失った悲しみと、また会いたいという願いを詠ったものである。この作品において雨はどのようなものかというと、一つは、篁自身が言っているように、彼の涙である。彼は愛する恋人を失い、悲しみのあまり涙を流している。雨は彼の現状を描いたものだと言える。そして、もう一つは、雨が彼女を現世へと帰らせる足止めの手段だということである。これは何も難解なメタファーではない。もし外に出ていて、突然雨が降ってきたら、多くの人は雨宿りをして雨が止むのを待つだろう。雨は人の行動を制限するものであり、そこに恋心をかけ合わせると、篁のいう雨とは深い悲しみと、自分から離れてほしくないという愛情と独占欲が含んだ表現だと分かる。

 back number「雨と僕の話」は、2019年に発表されたアルバム『MAGIC』に収録されたアルバム曲である。『MAGIC』において唯一の失恋ソングである本作は、恋人に去られて打ちひしがれる男の心情が描かれており、舞台は雨の降る交差点である。同系統のback numberの失恋ソングのほとんどが後日談であることを考えると、失恋直後のエピソードが描かれた作品は珍しい。また雨について言及された作品、という点でも希少である。本稿ではかつて篁の詠ったような雨と失恋の関係に着目しながら、「雨と僕の話」の考察をしていく。

雨の交差点の奥に

もうすぐ君が見えなくなる

おまけのような愛しさで 呼び止めても

傘を叩く音で 届かないだろう

(雨と僕の話/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「雨と僕の話」は短い作品だが、ここで語られている失恋は、まるで渦巻いた感情を一気に凝縮させたようである。語り手の男は、雨の降る交差点の奥へと進んでいく恋人だった一人の女を見つめている。彼はただ茫然と立ち尽くしている。一方、彼女は先へと進んでおり、その手には傘が握られている。交差点とは、分かれ道と二人の別れを合わせた表現だろう。雨は彼の悲しみであり、篁と同じく、彼から離れていく彼女を少しでも引き留めようとする意志が降らせている。しかし、彼女は傘をさしているため、雨によって足止めをされない。「傘を叩く音」とは彼の悲しみに寄り添うつもりはないという彼女からの返答である。拒まれた彼は次に「おまけのような愛しさ」で何とかしようと考えるが、それも徒労だと諦めてしまう。

終わったのさ ただ 君と僕の話が

エンドロールはない あるのは痛みだけ

(雨と僕の話/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

彼は自分が失恋したことを恋人に振られた、とは言わず、話が終わったと表現する。後の語りからして、話とは物語のことを指している。物語とは終わりが来ることが予め決まっているものである。彼は失恋を物語とすることで、この恋は元々終わるものであり、予定調和の出来事だから仕方ないのだと考えようと試みた。そのことで、少しは傷も浅くなると考えたのかもしれない。しかし、彼が「エンドロールはない」、「あるのは痛みだけ」と言っているように、実際はそうなっていない。失恋の傷はまっすぐに彼の心に刺さり、食い込んでいるのだ。

 彼がどのような人物であるのか、という疑問について考えるヒントは、本作の語りの外にある。back numberのライブでは特定の曲の演奏前に、MCとは異なる前口上あるいはメッセージ付きの映像といったような形の演出が行われることがある。「君がドアを閉めた後」、「幸せ」、「クリスマスソング」、「赤い花火」等が該当するが、本作もそのひとつである。2019年に行われた『NO MAGIC TOUR 2019』においては、次のようなものであった。

いつだってそうだ

その場しのぎの言葉で

取り繕う

本当は誤魔化せてもいないんだ

それも分かってて

君は付き合って

その下らないやりとりに

付き合って くれていただけ

今となれば 今となれば

今となれば 今更

(ユニバーサルシグマ『NO MAGIC TOUR 2019 at 大阪城ホール』より)

振られた男は、途方と自己嫌悪に暮れている。この前口上からして、かなりややこしい性格をしている。また、ここには彼の語る言葉に、「その場しのぎ」や、「誤魔化」しが含まれていることが示唆されている。すると、冒頭の「傘を叩く音で届かない」から恋人を呼び止めなかったという彼の行動および言葉は、呼び止めることで彼に降りかかる出来事を避けようとするためのものだったことが分かる。自分のもとから去っていく恋人を呼び止めた者に降りかかる出来事とは何かといえば、恋人と交わす最後の会話である。これを自ら避けるとは、あまりに勿体ない。すなわち、彼は恋人に対して自らの感謝なり怨恨なりの想いを直接伝えることのできる機会を放棄したのだから。けれども、彼はそうした。それはおそらく、彼にとって恋人と最後の会話を交わすという行為は、「いつか後悔しないために相手へ自分の想いを伝える」とは別の意味をもつものとして考えられていたからなのだ。

 メジャーアルバム『blues』(2012)収録の「エンディング」は、本作と同様に、失恋から間もない時期にある青年の心情を描いた作品である。「エンディング」の語り手は、破局にあたり、走馬灯のように過去の思い出に頭を巡らせる。そこで彼の知らぬ間に恋人に訪れていた変化を、その顔と表情に見出している。

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見慣れた服に見慣れない笑顔で 悲しいねと言った後で

そっと僕の手を取って まっすぐ目を見て

ありがとうと つぶやいた

(エンディング/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

この場面は同バンドがくりだしてきた数ある失恋描写でも出色のものであろう。目の前にいる恋人は自分の見慣れた服を着ているのに、まるで見たことのない顔をしているというのである。「エンディング」で主に語られているのは彼の後悔と反省なのだが、本稿で注目したいのは、自分と別れようを決意した恋人の変化に気づいたその時の、彼の恐怖なのである。恐怖、という表現は恋愛ソングを語る文章とは相容れないかもしれないが、あえて使いたい。この場面で彼に恐怖を与えたと思われる描写は、恋人の「悲しいね」、「ありがとう」という発言が、前者が「言った」ものとされ、後者が「つぶやいた」ものとして区別されている点である。

 言うと呟くは、似ているが同じではない。呟くは、会話の前に独り言に近いものであり、会話の中では遠回しで真意の曖昧な行動として受け取られる。かえって言うは呟きと比べると真意を直接的に伝えるものである。このふたつの行動を、その差を踏まえて使い分けると、言葉を言う時は単に真意を相手に伝えるために使い、言葉を呟く時はその真意を相手に言いづらい、あるいは相手に真意が伝わっても誤魔化せるようにしたいという盾のあるコミュニケーションをとるために使うだろう。そして実際、「エンディング」の語り手の恋人がどのように使ったのかと言えば、「悲しいね」と言い、「ありがとう」と呟いたのである。これは一見すると妙である。破局したとはいえ仲睦まじい関係であったのならば、「悲しいね」と呟き、「ありがとう」と言いそうなものではないだろうか。しかし、この妙な違和感こそが答えなのだ。彼女の笑顔と「ありがとう」は偽りであり、その真意は「さようなら」である。そして、「悲しいね」は偽りもない真意そのままなのである。つまり、彼はこのやり取りで自分が恋人にとって「ありがとう」と素直に、また嘘のない笑顔で言えない人物に成り下がったことを自覚させられたのだ。

 「エンディング」に登場する語り手の恋人は心優しい人物とされている。いつも自分のことばかり気にしている語り手に寄り添い、見返りも求めずにいた彼女だったようである。そんな非の打ち所がない優しさをもつ人物に嫌われたとあれば、言葉などでるはずがない。彼は彼女を引き留めるに値するような行動を何ひとつしていないのだから。しかし、それだけ優しい人物だったからこそ、彼は子どものような自己中心的言動を赤の他人にできたのであり、彼にとって恋人は母親のような包容力、あるいは安心感を与える場所としての家のような存在としてそこにあった。そして子どものようなわがままを人前にさらけ出すのは、彼がそうした包容や安心を強く望んでやまないほどの不安を抱えた人物だったからに違いない。彼が見舞われた恐怖とは、そうした自分の不完全さを受け入れてくれる存在を失ったことから生じている。彼のわがままは彼の未熟さを表したものであり、未熟な自分を受け入れてほしいという弱さだった。しかし、結果、彼にもたらされたのは恋人が彼を拒む他人へと変わる恐怖、そして、居場所を失った孤独。すべて自らの所業による報いとはいえ、とてつもない衝撃と絶望を彼に与えたはずである。ここから彼の後悔と反省が始まり、「エンディング」の語りへといたるわけである。

ついに呆れられるまで

直らないほど馬鹿なのに

君に嫌われた後で

僕は僕を好きでいられるほど

阿呆じゃなかった

(雨と僕の話/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 「雨と僕の話」に戻る。本作は「エンディング」と比べると、語り手自身についての言及が多く、恋人にかけられた言葉や別れる前の様子などは描かれていない。彼が「君」と呼ぶ恋人は静物あるいは記号のように語られている。恋愛を抽象的な「話」としているのはその表れでもあったのだろう。思うに、彼はいつも他人の前で取り繕う自分を変えてくれるきっかけとなるようなエピソードを欲していたのだ。だから、彼にとって恋愛の目的は自己肯定であり、その点から言えば、彼女がどのような人物であるかは重要ではなかったのであって、あくまで彼女と自分の恋人という関係に固執していたということができる。しかし、ライブ上での前口上から分かるように、彼女の方は彼としっかり向き合っていたのである。それに対して、「付き合ってくれていただけ」と言ってしまえるのも、やはり彼の恋心が「おまけのような愛しさ」でしかなく、意識が恋愛によって変われなかった自分自身にのみ向いているからである。しかし、本当に自分のことばかり考えていたのなら、彼女に嫌われても自分を慰めて、自分を好きでいられたのだ、と彼は馬鹿、阿呆という罵詈雑言を用いて語っている。彼が自分を好きでいられるには恋人という存在と恋愛という物語が担保として必要だったのである。

今となれば ただ ありきたりなお話

言葉にはできない そう思っていたのに

終わったのさ ただ 君と僕の話が

エンドロールはない あるのは痛みだけ

(雨と僕の話/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 

どうして ああ どうしてだろう

もとから形を持たないのに

ああ 心が ああ 繋がりが 壊れるのは

(雨と僕の話/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 本作は雨の交差点に立っている語り手が恋人を見送る場面を描かれているが、それは心象風景である可能性が高い。すなわち、実際に語り手は雨の交差点に立って状況を説明しているのではなく、あくまでも語り手が自らの心象を具現化して作りあげた話だということである。その根拠は「今となれば」、「そう思っていたのに」と語り手が現在から過去への回想をしていながら、冒頭では「もうすぐ君が見えなくなる」とリアルタイムに恋人を見送るという矛盾した描写である。現在のことを過去のものとして語るには、語り手が未来にいなければならない。ゆえに語り手と雨の交差点をめぐる「雨と僕の話」は、実在しない虚構の出来事だということができる。

君が触れたもの 全部が優しく思えた

例外は僕だけ もう君は見えない

(雨と僕の話/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「君と僕の話」が終わり、「雨と僕の話」が生まれた。それは語り手にとって思いがけない物語の始まりであった。失恋当初の彼は恋人に去られた事実を「言葉にはできない」と塞ぎこみ、口に出すことさえ拒んでいた。けれども、時が経って、自分の失恋が「ありきたりなお話」であるように思われてきたのだという。逆を言えば、彼にとって今回の失恋は極めて重大な事件として扱われてきたということである。それは「君が触れたもの」を「全部が優しく思え」るまでに価値観を依存させていたことからも分かるように、恋愛が彼の自我と直接結びついていたからである。ならば失恋は恋人との「繋がり」と共に「心」をも壊しかねない危機といって過言ではない。交差点で彼が恋人を呼び止めず、彼女との最後の会話を避けた理由もここにある。彼は自分が失恋したという事実を遠ざけようと試みたのだろう。にもかかわらず、実際に恋人は去ってから彼の心に訪れたのは崩壊の「エンドロール」ではなく、「痛み」だけだった。つまり、終わりは来ないことを彼は知ったのである。痛みを感じるのは彼が生きていることの証明でもあるのだ。その時、心象に雨は降り始め、彼が抱き続けている恋人の存在が薄らぎ、過ぎ去っていく光景と言葉が、彼の内から溢れ出してきた。「雨と僕の話」は実在しない虚構の物語だが、そもそも「もとから形を持たない」恋愛の終わりの出来事なので、虚構があるのは当然といえば当然なのだ。誰も恋の終わりを証明などできない。だから、失恋者は失恋を論理的な説明ではなく、抽象的なお話として語ることを選ぶのだろう。

終わったのさ ああ あるのは痛みだけ

(雨と僕の話/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

 以上、「雨と僕の話」について述べてきた。終盤の描写をみる限り、結局、語り手は雨の中で茫然としたままのように読める。おそらく実際そうなのだろう。しかし、それが救いのない結末だとは、筆者には思われない。なぜなら、語り手は自らの失恋を「ありきたりなお話」のように思えても、そのまま忘れることなく、その後悔と苦痛に向き合っているからである。彼は恋愛によって自分の不安や不完全さに対する自己肯定を他人で賄おうとしていた。その上で、この結びの描写をみると、冷たい雨の中で彼は、何とか一人きりで立とうとしているように思えるのだ。本稿では「雨と僕の話」を「エンディング」と並べて述べてきたが、雨という観点からは、インディーズアルバム『あとのまつり』(2010)に収録された「Life」も、本作に関連しているように思う。「Life」は失恋かどうか不明だが、人との別れから立ち直ろうと自分を鼓舞する作品であり、悲しみから立ち直った未来を雨上がりの虹として表現している。

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またいつかこの雨が終わり 小さな虹が出る頃に

心から笑えるのかな この歌を誰かと共に

(Life/作詞:清水依与吏/作曲:清水依与吏)

「この雨」というからには、語り手は雨の中で雨上がりを待っている。そして、いつか虹が出る頃には自分が耐えている雨の一日が笑い話となって、誰かと分かち合えるはずだと歌っているのだ。「雨と僕の話」の語り手もまた、雨の中に立つことを決めたその時点で、いつか晴れ渡る空と、そこにかかる虹へ向かって歩み始めたとは言えないだろうか。つまり、本作は確かに悲しみの底に至った男の心情を描いているが、彼は暗闇にはいない。彼には降り注ぐ雨があり、雨は悲しみの象徴であるとともに、希望の到来をも予期させる表現なのだ。虹が出る前には、いつも雨が降っているものだから。